novel-32

第三十二話 アラジンとブラックジャック

 この章は賭け事・博打・カジノなどに興味のない人は飛ばして結構だ。
 私の一生の勝負の場である、「ブラックジャック」、「アラジンAクラシック」そして「麻雀」について、私の勝負道を解説しよう。

 興味のない人は第三十三話に進んでくれたまえ。

 以下は私個人の考え方であり、これで必ず勝てるとはもちろん限らない。それが勝負事なのだから。
 ただし、私のこういう考え方もあるという見方で読んでいただきたい。

 まず最初に、私の父・昇の言葉をもう一度ここでおさらいしよう。

「博打はやっても構わねえ。ただし、女房と子供を泣かせるんじゃねえぞ」

 これを逆説に読んでみれば、

「女房と子供が泣いていないのなら是非博打はやるべきだ」

 となる。(※編集注:違うと思いますが原文まま)

 私はこの教えのもと、以下の3種類の博打に人生を賭けたのである。

ただし、博打を行う人に“必勝法”を教えよう。
博打で負けないコツ。それは──

『博打をしない』

 ということだ。
 当たり前だろ、と言われるかもしれないが、これは真理であり、絶対の条件だ。
しかし博打で“絶対に勝つ方法”も、実は存在する。それは──

『親、つまり胴元になるということだ』

 パチンコ屋にしてもカジノにしてみても、あれだけの設備を導入できるということは、博打で勝てているという証拠である。

 この真理をきちんと理解した者だけが、是非この章を読んでいただきたい。

※編集者注:日本国内における賭博行為は違法です。

 さて、博打には「勝負事」と「賭け事」の二通りがあると私は考えている。

 勝負事とは──花札、麻雀など自分が参加して、自分の実力次第で勝敗が決まるもの。
 強ければ勝ち、弱ければ負ける。すべて自分の責任。
 一方、賭け事とは──宝くじ、競馬、競輪、競艇など、自分以外の誰かがやることにお金を賭けるもの。これは運の要素が強く、介入できない。

 私は一通りやったが、最終的には「勝負事」にはまっている。
 なぜなら、自分の腕と判断で道が開けるからだ。

 そして、私が人生の中で選び抜いた三つの「勝負の舞台」が以下である。

(1)ブラックジャック
(2)アラジン・A・クラシック
(3)麻雀

以下ではそのひとつひとつに丁寧な解説を入れたい。

(1)ブラックジャック

 既に多くの戦略ガイドが出ているが、まず最低基本条件は戦略表を丸暗記するべきであるということだ。
 次に、カードの計算はカジノ側任せにはせず、自分で計算できるようになることが重要である。

 また一つ大事なことを紹介しよう。ディーラーも人間である。ディーラーの間違いを指摘できるか、しないかが勝敗を大きく分ける。
 つまりこっちが有利なときに間違えたら決して言葉を発せず、冷静沈着にコインを受け取り、もし不利な間違いをしたら日本語でも全然かまわないので、

「ちょっと待てい」

 とはっきり言えるかどうか、である。お試しいただきたい。ディーラーも人の子、ミスはする。覚えておこう!

 さて、ブラックジャックの面白さをもうひとつ付け加えておきたい。それは「プレイヤーがチームとなってディーラーと戦う」という独特の図式である。ルーレットやバカラのように完全に運任せでもなく、ポーカーのように隣の席の者とチップを奪い合うわけでもない。

 ブラックジャックでは、全員が同じ“敵”──つまりディーラーを相手にしている。隣のプレイヤーがバーストしようがブラックジャックを出そうが、自分の勝敗には直接関係しない。そして、ディーラーが22以上を引いてバーストすれば、テーブル全体がほぼ勝利するのだ。

 だからこそ、誰かが「スタンド(ヒットしない)」を選び、その結果ディーラーがバーストすれば、自然と小さな拍手が湧く。見ず知らずの者同士が、同じ陣営として一喜一憂する。この奇妙で心地よい連帯感もまた、ブラックジャックの魅力のひとつに違いない。

 ただし、その責任を最後のプレイヤーに任せるのは、私はあまり好きではない。テーブルの一番左の席──いわゆる「サードベース」は、最後に行動するため、その判断ひとつでディーラーが勝つか負けるかが決まることがあるからだ。だから私は、その「サードベース」を指定席にしている。最終的にディーラーをバーストさせる責任を、自分で持つ。その姿勢をよしとしている。

 さらに忘れてはいけないのが「冷静さ」だ。
 人は勝っているときに調子に乗り、負けているときに焦って賭け金を吊り上げる。これは破滅への道だ。私は常に「基本ベット額」を決め、それを守ることを徹底してきた──と言いたいところだが、実際にはそうもいかない。つい気が大きくなったり、逆に取り返そうとして深追いするのが人間というものだ。

 そこで私は、ある方法を編み出した。
 まず「自分が無くなってもいい」と思える額を決める。次に、その額の倍の予算を用意する。すると心に余裕が生まれる。
 この“無くなってもいい額”の半分が消えた時点で、私はきっぱりと諦めて席を立つ。運がない日と割り切るのだ。後は基本ベッドをさらに減らして、最低ベッド額で最終日の帰る時間までちまちまと勝負すればよい。

 不思議なもので、こうすると4分の3もの金が無くならずに残る
 これはもう、負けではない。勝ちとまではいかずとも、「大負けをしない」という戦術上の勝利である。
 この“引き際”こそが、ブラックジャックにおける最大の見せ場だと私は考えている。

 どんなに隣が盛り上がっていても、自分の運の波が一番高いところでやめる。
 勝ち逃げを美学とするなら、負け逃げもまた戦略である。
 これを実行できるかどうかが、勝負師とただの博徒の分かれ道なのである。
 ただし、残念ながら私もこれはできていない。勝ち続けている時に辞めることがどうしてもできないのだ。

 そこで、「ブラックジャック上がり」という辞め際の技も紹介しておこう。

 これは、もう終わらなくてはいけない時間に近くなったときや、どうしてもやめられずズルズルと続けてしまいそうなときに使う方法だ。
 自分にこう言い聞かせるのである。

「よし、ではブラックジャック上がりとしよう」

 と。

 あとはひたすら『ブラックジャック(21)』が自分に来るのを待つ。
 これが来たら、勝ち逃げ成功。そこで潔く席を立つ。

 私の経験上、50ゲームほどやれば一度はブラックジャックが来る。
 つまり1時間以内に決着がつき、しかも「負けで終わらない」。
 後味よくゲームを終えるための、一石二鳥の辞め際テクニックだ。

(2)アラジン・A・クラシック

 国内メーカーが製造したスロットマシンで、4号機時代の名機「アラジンA」を再現した6.5号機である。私はこの機種しか打たない。

 この機種の魅力はアラジンチャンスと、そこからのスーパーアラジンチャンスによる爆裂連チャンにある。ただし波が荒い。どんなに出なくても、じっと耐えてアラチャンが来るまで回し続けるのが私の戦法だ。

 単チェリーを契機にアラジンチャンスを目指し、1セット30ゲーム・純増約2.9枚のスーパーアラチャンを引くまで耐える。この一連の道のりは、忍耐と信念の戦いである。

 アラチャン終了後にショート・ロング・超ロングの状態に入り、ここで約50%の継続が狙える。私はここで一気に勝負をかける。

 勝ちパターンは明確である。設定狙いよりも履歴と挙動を重視。特に単チェリーの出現タイミングと、前回のアラチャンの終了ゲーム数に注目する。誰かが400〜500ゲームほど回している台に狙いを絞るのが効率的だ。

 私はこの機種に「勝たせてもらう」のではなく、「勝つ資格のある者だけが恩恵を受ける」と思っている。だからこそ、どれだけ負けても打ち方を崩さず、一定のルールで向き合う。それがアラジン・A・クラシックにおける信念である。

 これは恐らく、他の国内スロットマシンでも同じであろう。

 やったことないから知らないが。

(3)麻雀

 麻雀は言わずと知れた中国発祥の歴史あるゲームであり、日本では娯楽の枠を超えて、文化として深く根を張っている。雀荘のタバコの煙の向こうに、人生の縮図を見るような思いを抱いた者も少なくないはずだ。

 私の戦法は一貫して「常に2位狙い」である。これは決して消極的な戦略ではない。むしろ、極めて実利的で、長期戦を見据えた冷静な選択だ。トップを取れば確かに目立つ。だが、その代償に次の半荘で大きな沈みを喫するようでは、トータルで見た勝負には勝てない。2位でいい。2位を重ね、乱高下の激しい場にあって、静かに笑う者が最後に勝つ。

 リーチをかけられたら、自分の手を崩してでも安牌を切る。放銃しないことが、最優先。勝負手ならば話は別だが、無理に押す理由がない場面では、潔く降りる。麻雀において「降りる」判断こそ、最も難しい。ゆえにそれを選べる者だけが、沈まずに生き残る。

 手役に固執しないこともまた重要だ。三色、混一、チャンタ──それらが見えると欲が出る。だが、役満未遂で終わった無惨なテンパイを何度も経験すれば、考えも変わる。むしろ小手先でいい、1000点でもいい。アガって流す。速さこそ正義。そう割り切って打つことで、目の前の局を一つずつ制していける。

 私は役牌のポンを躊躇しない。門前清高などという幻想は捨てる。白・發・中が場に出れば鳴く。それがリズムを作り、相手のペースを崩すことにもつながる。状況に応じてスピードに切り替える柔軟性が、現代麻雀では必要だ。

 ただし、勝負は場に依る。点差、順位、残り局数──それらを常に把握していなければ、最適解は見えない。トップ目なら手堅く守る。無理に突っ張らず、相手の攻めをいなし、逃げ切る。ラス目なら話は逆だ。リスクを取ってでも親を連荘させ、点棒を奪う覚悟がいる。だから麻雀は、単なる点数計算の遊びではなく、情報と心理の読み合いなのだ。

 だが、ここで忘れてはならないのが「人」である。

 麻雀は一人では成立しない。対面に座る相手がいて、互いの呼吸と表情を感じながら成り立つゲームだ。勝つためだけに麻雀を打つのは、孤独な戦いだ。それではいずれ、勝っても虚しさが残る。むしろ、負けたとしても、終わったときに笑って「楽しかった」と言える卓こそ、真に良い場である。

 だから私は、意識的に場を明るくする。冗談を交えたり、打牌に一言添えたり、他家の好手に素直に賞賛の声をかける。ミスがあっても責めず、互いを尊重する。そうすれば、たとえ自分が沈んでも、場に温かさが残る。そして不思議なことに、そうした卓では不思議と流れが良くなるものだ。麻雀とは、運と流れに左右されるゲームであると同時に、「空気」に支配されるゲームでもあるのだ。

 そして最後に、最も大切なことをひとつだけ。

 勝っているときこそ、卓を降りる勇気が必要だ。人は勝ちを味わうと、欲が出る。もっと勝てる、もう一半荘、あと一回──それが泥沼の始まりだ。負けるリスクを抱えたまま続けるよりも、美しい勝利をそのままに、静かに立ち去る。それが「勝ち逃げの美学」だ。勝ち逃げとは、弱さの表れではなく、強者の知恵である。麻雀に限らず、勝負事において「引き際」を知る者だけが、長く勝ち続けられる。

※編集者注:日本国内における賭博行為は原則として違法です。本稿は筆者の個人的経験と思想を語るものであり、推奨や指南を目的とするものではありません。

目次 第三十三話

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