novel-31

第三十一話 ロード・トゥ・カジノ ──カジノへの道──

 さて、シアトルの球場──イチローを擁するマリナーズの本拠地で、六連戦の観戦予定を組んだ。
 まず、金・土・日でヤンキースとの三連戦を観て、その後、火・水・木でエンジェルスとの三連戦だ。

 イチローはそのあとは遠征に出てしまい、シアトルからいなくなってしまう。
 だから私は、この六連戦を選んだのだ。

 そして、そう、悲しいかな──合間の月曜日には試合がないのである。

 日曜日はデーゲーム。次の火曜日のナイターまで、まるまる四十八時間も試合がない。
 英語も使えず、観光にも興味のない私にとっては、何もすることがないのである。

 あ、そうだ。

「アメリカにいるんだし、ラスベガスにでも行ってみないか。すぐそこだろ?」

 このとき私には、父・昇の声が聞こえていた。

よし坊、博打は積極的に好きなだけやれ。女房と子供が泣くまでは問題ねえ

 という声だ!(注:原文と違う気がしますが、インタビューまま)

 息子は言った。

「ラスベガスまで、ここシアトルから二千キロはあるよ! 北海道から沖縄に行くようなもんだよ! 一日とかの旅行で行くような距離じゃないって!」

 相変わらず、人を小馬鹿にした話し方をする息子だ。

 私はすかさず言い返した。

「やかましい! 旅費を払ってるのは俺だ! つべこべ言わず、さっさと連れて行け!」

 かくして──私はデーゲームが終わった後、夜の便で、一路ラスベガスへと飛ぶことになった。

 時代は、アメリカ同時多発テロ事件の直後。アメリカの保安検査は、まるでテロリストを摘発するがごとく厳格を極めていた。

 私は、まるでカジノに戦いを挑む『侍』の気分で、手ぶらで肩で風を切りながらシアトルの空港を颯爽と歩いていた。

 息子のアドバイスを元に、私は手荷物は全てシアトル空港の駐車場のレンタカーの中に置き、装備としてシャツにパンツにモモヒキ。それにズボン。武器として持ったのは現金とパスポートのみにした。
 これならどこから見ても、危ない人間には見られないだろう。

 その時だった。筋肉隆々の黒人の保安官(に見えた)に呼び止められた。

「ペラペーラ」

 私があまりにも眼光するどかったため、きっと恐れおののき話かけてきたのだろう。

「む?貴様、拙者に何用であるか?」

 私は『侍』。気迫でひるむわけにはいかない。堂々と睨み返してやる。

 その黒人保安官、身長は百九十センチ。腕まわりは私の腰より太く、見るからに剛健無比。そのうえ腰には銃。こちらは荷物は何も持たず、空港内であるがゆえ、もちろん丸腰である。勝ち目はゼロ。しかし私は侍、退くことなど許されぬ。

 私は細い目をさらに細め、下から睨みつけた。

「ペラペーラ、ペラペラ」

「何を言っているのかわからん!日本語で話せ!に・ほ・ん・ご・じゃ!」

 保安官は、アメリカ映画でよく見る「しょうがないな」の肩すくめポーズを見せると、先を歩いていた私の息子を呼び止め、何か話している。

 息子が戻ってきて言った。

「なんかね、ズボンの下に“何か”を隠してるって。センサーに引っかかったってよ」

「何っ!?ズボンの下になど、何も隠してはおらぬわっ!」

 息子は再びペラペラとやりとりしたあと、私に向かって言った。

「ズボンの中に、なんか薄い布みたいなものがあるって。検査の人が言ってる」

「無礼者が!何も履いとらんわっ!見ろ!」

 私はその場で、保安官(実際は検査官)が止めるのを振り切り、ズボンを勢いよく引き下ろした。

 次の瞬間、シアトル空港の保安検査場で、私は衆人環視のなか、モモヒキ一丁で仁王立ちした。

 ──ふと、この時、記憶の奥に浮かんだのは、まさ子を助けるため、ブリーフ一枚で仲間たちの中に飛び込み、同じように仁王立ちした、かつての私の雄姿であった。

 息子が絶叫した。

「モモヒキ履いてんじゃん!!それだよ!!」

 黒人検査官は同僚と顔を見合わせ、大笑いしながら、

「OH! ジャパニーズスタイル オールドアンダーウエアー HAHAHA!」

 と私を開放したのであった。

 ──全くアメリカ人とは失礼な人種である。

 こうして、モモヒキ姿の侍は昭和の誇りを胸に、保安検査場をあとにした。

 そして何とか──我ら一行はアメリカ西部を目指し乗り合い馬車──いや、アメリカの国内航空便に乗り込み、辺りが暗くなる前に、シアトルから一路ラスベガスへと飛び立ったのであった。

 やがて、大地は音もなく闇に沈み、機は黒々とした空を巡行した。

 窓の外を覗くと、眼下にはかすかな車のヘッドライトが流れていくだけの漆黒の闇だった。

 私は、やがて訪れる戦いに備え、目を閉じ英気を養っていた──その時である。

「ちょっと、外見てみなよ!」

 息子の叫び声に私は目を覚ました。
 そして──暗闇の彼方に、異形の光の塊を目にするのだった。

「あ、あれは!未知との遭遇のマザーシップか!」

 あまりの輝きに、思わず目を細める。

 ──深夜の東名高速を東京から名古屋に向かって走ったことがある者ならば分かるだろう。
 漆黒の闇の静岡県を超え、名古屋に近づくと、突如としてパチンコ屋の派手なネオンが現れ、「ああ、名古屋に着いたな」と悟る、あの感覚。

 その百倍の衝撃を持って私を迎えたのが巨大な名古屋──いや、ラスベガスの光景だったのだ。

 私は思わず兜の緒を──いや、シートベルトを締め直し、機内の照明が落ちるのを見つめていた。

 機は大きく傾きながら高度を下げ、閃光の海の中へと滑り込んでいく。まるで、異世界の都へと舞い降りるかのようであった。

 もはやアメリカ生活も板についた私は、スチュワーデスの英語が手に取るようにわかるようになっていた。彼女たちは私にこう言ったのだ。

「グッドラック!」

 ふっ、私にとってまさに的確な言葉と言えよう──

 私は、共に駅馬車──いや、航空機に乗ってラスベガスに一攫千金を夢見てやってきた開拓者たちとともに飛行機を降りた。

 その肌に乾いた熱風が挨拶をした。あきらかにシアトルとは違う風だ。

 熱く、乾いていて、そして──死臭がする。

 いや、違う。こ、これは……そう、財宝の匂いだ!

 ──そうだ、ラスベガスの空港では、飛行機の到着口から出口まで、延々と光り輝くスロットマシンがズラリと並んでいて、その周囲にはあり金を全て飲まれ力尽きた屍のようになったアメリカ人たちが横たわっていた。
(※注・恐らく飛行機を待ち合せている人々のことだと思われます)

 そこはまさに、戦場へ向かう勇者たちが黄金の罠で足元をすくうかのような、魔宮の入口だった。
 周囲にはこれら罠で屍となった者たちの死臭が蔓延していたのだった。

「今、この機械に一ドル入れてスロットを回すと、当たれば五億だってよ」

 息子がスロット上の英語の説明を訳してくれた。

「なんじゃと!二子のゴールドだと、当たっても五万とかじゃぞっ!」
(※注:このセリフの社長の意図は当時から現在に至るまで不明です)

──ラスベガス。ここは何もかもが桁違いだ。

 空港にいるだけで四十八時間は潰せそうだ。というか、ここで一生を終えるのも悪くはない……

 はっ、いかん!いかん!

 私はフラフラと目の前に広がる黄金の罠に片足だけで何とか踏みとどまった。アラジンが魔法のランプを手に入れるために挑んだ『死者の洞窟』において

「決してランプ以外の財宝に触れてはならない」

 と警告されたように、私もまた、この誘惑に手を出してはならないと心の中で叫んでいた。
 目の前に広がる光り輝くスロットマシンはまるで、

「さあ、触れてごらん」

 と誘惑しているかのように輝き続けていた。

 しかし私は知っていた。ここで手を出してしまったら、私はこの砂漠に埋もれ、生きては帰れないことを!

「ねえねえ! やってみようよ!」

 金銀財宝の誘惑にすっかり自我を失った息子が興奮して私に言った。普段は冷静沈着で賭け事には一切興味を示さぬ息子の目が明らかに何かに取り憑かれていた。

「ごごご五億♪ごごご五億♪」

 サンネームとは比較にならないほど世界に名の知れた大企業のエリート会社員であった息子がここまで理性を飛ばさせるとは・・・・

 おそるべしラスベガス──だが、私は心を鬼にして息子に左頬を思い切りぶっ叩いた。

バシッ!!

「しっかりせい!敵の大将が居座る本丸はまだ遠いぞっ!」

 息子はまだ目の焦点があっておらず、ぼんやりと空中を見ながらこう言った。

「はへ?僕の五億はどこ?」

バシッ!!私は渾身の力を込めて反対側の頬を叩いて叫んだ。

「おい!いい加減戻ってこい!」

 息子の焦点がやっと正常に戻ったので、私はこやつが正気を取り戻したと思った。しかし、目の中にドルのマークがまだ見える。
 息子は完全にラスベガスの雰囲気の飲まれ、ただの猿のように腑抜けになってしまったようだ。
 私はこやつを「アブー(アラジンの相棒の猿)」と呼ぶことにし、私は首根っこをつかみ、アラジンが数々の試練を乗り越えたように、なんとか誘惑を振り切り、魔法の絨毯に乗った──もとい、長い長いエスカレーターに乗って、出口に向かった。

 こうして何とか第一関門である空港の罠を抜け、魔王のいる本丸へと歩みを進めることができたのであった。

 そして、いよいよ我が一行の第一陣が宿営を張る地──そう、『ホテル・ルクソール』に向かうのだ。

 時間にしてタクシーでわずか五分。

 タクシーが到着し、私の目の前にそれは現れた──黒いピラミッド。
 まるで古代エジプトの神殿が、ラスベガスという幻想の地に転生したかのようであった。

「……魔王──織田信長はこの中か」

 私は思わず立ち尽くした。

 まさか……ピラミッドで一夜を明かす日が来ようとは、シアトルの保安検査場でモモヒキ姿だった『侍』に訪れる試練を誰が想像したであろうか──。

ホテル・ルクソール』私にとって初めて過ごすラスベガスの本丸だ。

 ピラミッドの先端からは一条の白い光が空へと伸び、その光はまるで宇宙の果てを指し示しているかのようだった。

 「……拙者にとってここは死地となるか、生きてまさ子の元へ帰れるか……」

 そう呟きながら、私は息子に連れられ、ロビーに足を踏み入れた。だが、その瞬間、私はその自分の視界に入った光景に思わず息を呑んだ。

 目の前に広がっていたのは、まるで蜃気楼のような異次元空間であった。

 ─無限の彼方まで広がるカジノフロア。
 ─見渡す限りどこまでも続くスロットマシンの群れ。
 ─カラカラと鳴り続けるコインの音。テーブルゲームの賑わい。
 ─笑い声を上げる老若男女。

 煌びやかな照明が、まるで真夜中の太陽のようにフロアを照らし、時が止まったような錯覚を覚えた。

 私は思わず天を仰いだ。

 そこにはピラミッドの頂点まで吹き抜ける巨大な空間が広がっている。

 壁も天井もすべてが黒く塗りつぶされ、空間ごと無限の闇に吸い込まれていくような感覚に襲われた。

 「なんじゃこれは、カジノしかないではないかっ……!!」

 思わず声に出していた。

 そう──そこは、ホテルではなかった。

 『カジノがホテルの中にある』のではなく、『カジノの中にホテルがある』のだった。
 私はあまりの衝撃に思わずのけぞりそうになり、その場に立ち尽くしたまましばし茫然とした。

 これが……ラスベガスか。

 この街には常識も、時間も、昼夜の区別さえない。どこまでも広がる果てのないカジノフロア。無限に響き続けるコインと歓声。これが二十四時間三百六十五日休まず開いているというのだから恐れ入る。

 私はそのまま惹き寄せられるように、ふらふらと奥へと進んでいた。

 「そうだ……俺はついに来たんだ……!」

 人生初の本格カジノ。ギラギラと輝くテーブルゲームの台。素早い手つきでカードを捌くディーラーの指先。
 そして──テーブルに集う客たちの眼光の鋭さ。

 私はその勢いのまま、吸い寄せられるようにブラックジャックのテーブルへと歩み寄った。
 胸の奥が熱く燃え上がるのを感じながら、私はゆっくりと席に腰を下ろした。

 そう、私はブラックジャックというゲームひとつに狙いを定めていたのだ。

 ここで必要な武器はただひとつ。──そう現金だ。

 私はブラックジャックのテーブルに座ると、ポケットの中に入れていた百ドル紙幣を何枚か、背の高い男性の大柄な白人アメリカ人ディーラーに渡す。

 すると何枚かのコインとなって返されるのである。そしてディーラーはペラペーラと何かしゃべると、息子は頷き、ルールを通訳してくれた。

 「ルールは簡単で、カードを二配るので、それで二十一になるまでヒットするか止めるかを自分で決めるだけらしい」

「なんだ、簡単ではないか。ふっ、カード二枚の数字を足すことなど造作もない」

 私の手が震えている――武者震いである。

 ここはラスベガス。魂を削る勝負の場。ディーラーは百戦錬磨の剣客。一歩間違えれば、身ぐるみ剥がれてモモヒキ一枚で荒野に放り出されるだろう。

 だが私は確信している。勝てる。いや勝たなくてはならない。

「いざ、尋常に勝負つかまつる!」

 場が静まりカードが舞う。刃を交えるがごとき瞬間。私の一手が、運命を断つ――!

 私にも最初のカードが配られた。

 手元にやってきたカードは、女王様だ。つまり「十」だ。ブラックジャックでは絵札は全て「十」と数えるのである。

 ディーラーのカードも伏せられた状態で配られる。

 そして二枚目が私のところに配られる。「五」であった。

 ――ふっ、合計十五か。二十一にはまだ遠いが、これならどうにかなる。

 ディーラーは自分のカードをめくって我々に見せる。「六」であった。

 ――ふっ、ディーラーの数字などこの際どうでもよい。私は自分自身のカードに全集中した。

 ディーラーは私の方に手を差し向け、「どうしますか?」とい素振りを見せた。

 私は躊躇わずに、

 「ヒット」

 と、指をポンとテーブルを叩いた。するとディーラーは「え?引くんですか?」というような表情を見せながらもカードが一枚、私の前に滑り込んできた。

 「六」だった。

 「オーグレート!」

 ディーラーは驚いたような大きな声をかけ、周辺にいたアメリカ人どもも騒然となった。

 合計は二十一になったのである。

 私は勝ったのだ。今置いた五十ドルと同額のコインがそっと私の席の前に置かれた。

 この後、周囲の空気が一変する。テーブルに座っていた他のプレイヤーたちがざわつく中、ディーラーが静かに微笑みながらカードをもう一度並べ始めた。

 「さあ、来い!」

 胸の中に炎が灯るのを感じながら、私は再度賭けに出る。運命の瞬間がまた訪れた。カードが配られ、私は自信を持って最初の一枚を見つめる。

 「王様」であった。つまり「十」である。

 全員のカードを配り終わったディーラーはすぐに二枚目のカードを配り始めた。

 私のところに配られたカードは「エース」であった。

 「ブラックジャック!」

 こうディーラーが叫ぶ間もなく、周囲のプレイヤーたちが一斉に拍手をしてくれた。私は今までの緊張が解けたように目を見開き、息子とハイタッチをした。

 私もその瞬間、初めてこの場所での真の意味を知った。

 ここは私の本当の居場所である!

 運命が必然的にここに連れてきてもらったこと。
 ブラックジャックのテーブルの上では、どんな計算も、どんな予測も超えて、ただひたすらに「勝つ」という運命に魅せられていくのだ。

 十ドルが、倍、三倍、そしてさらに膨らんでいく。私はこの瞬間、次第にその感覚を確信していた。

 ――まさに今、私は生きている!

 ゲームでは私は(ほとんど)負けることなく、周囲の期待を超えた成果を上げ続けた。

 「俺は強い」

 ――この瞬間、私は確信する。

 私はこのために生きてきたんだ。そして私の中で、 己の人生が新たな歩みを始めたことを実感した。

「とてもお強かったです。完敗です」

 とディーラーもにこっと挨拶した。もちろん息子の通訳でだが。

 私は全ての賭け事において、「自分で勝負をかける」というのが重要だと考えている。宝くじや競馬など、どちらかというと他力本願な戦いは好みではない。

 ブラックジャックは己の判断が勝敗の全てを左右する。これだ。まさしく、孤独な戦(いくさ)だ。これぞまさに私のためにあるような戦いなのであった。

 しかし、一手の決断に全神経を注ぎ、勘と理性を両の天秤にかけて勝負を打つ。

 ──勝てば億万長者。

 ──負ければ荒野にモモヒキ一丁。

 この緊張と疲労は、次第に私の魂を削り取っていった。

 気づけば背中には汗がにじみ、肩は鉛のように重い。呼吸が浅くなり、指先が震えていた。

――いかん。渇きだ!渇きがくる。

 喉を潤さねばならない。さもなければ、判断が鈍ってモモヒキ一丁に身ぐるみを剥がれてしまう!

 しかし、カジノで提供される無料のドリンクを貰うなど、『侍』の矜持が許さん。

 だが私は静かにポケットに手をやり、くたびれた一ドル札を取り出すと、ウエイトレスに差し出した。

 これが――『侍』というものだ。

 私はアルコールを嗜まぬ。常に、コーヒー一本である。
 対して、女房であるまさ子の沼家の酒豪の血を継ぐ息子は、バドワイザーなるハイカラな物を偉そうにグビグビと飲んでいる。

「そんなもん飲んだら、寝てしまうだろうがッ!」

 私は、シアトルの地で自分の腕に覚えこませた言葉を頭の中で反芻し、金髪のウエイトレスに向き直る。

「コーヒー、ウズ、シュガー!」

ウエイトレスは軽く頷いてすぐに飲み物を用意してくれた。

「……ふっ、アメリカ生活も長くなると、全く日常の諸作法も全く困ることなんて何もないな」

 ──そうして私は、今ウエイトレスが持ってきてもらったばかりコーラをぐいっと飲むのだった。

 あぁ、コーヒーが飲みたい・・・

 さて、そして私は、再び戦いの場に舞い戻り、カードを握る手に精神を全集中させた。

 次第に、周りの雑踏の音が遠のき、存在するのは自分とカードとディーラーだけになっていた。
 息子が「そろそろ寝たら」と声をかけてきたような気もするが、内容など微塵も脳には入ってこなかった。

 そして──何時間が経ったのだろうか。

 気づけば、私のテーブルの前にはチップの山が築かれていた。まるで金鉱でも掘り当てたかのように。
 その様子に、息子が目を丸くする。

「すごいよ!大勝じゃないか。腹も減ったし、この金で本場のステーキでも食べながらお祝いしようよ」

「ふっ、いいだろう」

 私はゆっくりと席を立ち、ホテルの中にある高級ステーキハウスに向かった。

 完全勝利である。

 祝いだ。祝いの席だ。酒だ。酒を持ってこい!

 息子が飲みたいという、一番高いワインを所望し、グラスにほんの十分の一ほど注いで乾杯を交わす。

「今夜の勝利に。乾杯」

 私は、ワイングラスに注がれた人差し指ほどの量のワインをぐっと飲み干した。

 その瞬間──世界がぐにゃりと歪んだ。

 やわらかな絹に包まれ、遠い異国へいざなわれるような感覚。
 微かな光も、かすかな物音も、すべてが薄い膜の向こうへと遠ざかり、私は音もなく、夢の底へ沈んでいった。

 眩いばかりのシャンデリア。
 私はカジノの王となり、金貨を撒き散らしながら、得意満面に笑うハーレムの中心に君臨していた。

 湧き上がる喝采、香水の香り、きらめくドレス。
 ジューシーな香りが食欲をそそる、厚さ五センチはあろうかという大きなステーキ。

 すべてがまばゆく、甘く、夢のようだった。

 ガーハッハッハッハハハ!

 ──はっ!

 私は朝──いや、昼過ぎに、ホテルのベッドで目を覚ました。

 ……すべてが夢だったのである。

 四十八時間しかないラスベガス滞在のうち、貴重な数時間をワイン一杯で豪快に吹き飛ばしてしまうとは。一生の不覚であった。

 うー、頭も痛い……

 父──昇の声が聞こえた。

 「よし坊、尾上の家系は酒は飲むな」

 ……父よ。言いつけを守れず、かたじけない。

 やはり、勝負の席で酒はいかんのである。

 だが──

 「酒は敵でも、煙草は味方」というのが、私の信条である。

 実を言うと、アメリカに来てからというもの、喫煙者としての私はすっかり肩身が狭かった。
 空港も、ホテルも、街角でさえも、どこも禁煙の嵐。まるで時代に取り残された罪人のような扱いである。

 そんな中、ラスベガスのカジノには「喫煙席」が存在したのだ。

 私はそれを見た瞬間、思わずこう呟いた。

 「……残っておったか、”昭和の魂”が。ラスベガス最高すぎる」
 (※注:昭和は日本独自の暦です。アメリカにはもともとありません。)

 二日酔いの鎮痛剤を飲みながら、英気を養うのだったが、そんな私の姿を見た息子が声をかけてきた。

 「おはよう。せっかくだし、色んなカジノに行ってみようよ」 

 私は、痛い頭を抱えながら考えた。まあ、ラスベガスのどこを探してもイチローはいないし、そもそもこの頭痛では勝負にならない。

「よかろう」

 そうして我々は、オープンカーを借り、いろいろと回ってみることにしたのだった。

 ラスベガスという町は、人工の奇跡だと聞く。

 元は何もなかった砂漠に、かつてのギャングたちが賭場を作った。それが始まりだという。

 高速道路を颯爽と駆け抜けると、まばゆいネオンの街が一転して、西部劇のような乾いた砂の大地に突入した。

──ここは夢にまで見た西部の景色ではないか。

「あ、ごめん。高速道路を間違えて街から出ちゃった。Uターンするからちょっとだけ待って」

「いや、いいからこのまましばらく走れ」

 私はオープンカーで乾いた風を受けながら、荒野を駆け抜けるカウボーイとなり、景色の中に溶け込んでいった。

「ガソリンを入れていくね」

 息子がそういうと、車は高速道路を降り、とある一軒のガソリンスタンドに立ち寄った。

 私たちが立ち寄ったのは、西部開拓時代の村……いや、ただの一軒のガソリンスタンドだが、私は、馬を降りたつもりで車を降りた。

 カラカラに乾いた風が吹き抜け、生命も感じない砂漠の足元を一匹のトカゲがさーっと逃げて行った。
 私がふと、建物の方に目をやると、そこにも小さなカジノの看板があることに気が付いた。

 そして、そのカジノのドアに手をかけようとして、私は思わず息を呑んだ。
 取っ手が――リボルバーの形をしていたのだ。

 私の興奮は頂点に達した。

――私は駅馬車を守るジョン・ウェインである!

 私が迷わずにそのカジノのドアを押し開け、一歩踏み出すと、そこにはあの懐かしき、三軒茶屋の映画館で観た西部劇の舞台が広がっていた。

 薄暗い照明に照らされた部屋。
 煙草の煙と酒の匂いが混ざり合い、けたたましく鳴るスロットマシンの音が耳をつんざす。

 テーブルに座っていたのは、リボルバーを腰からぶら下げた髭面の三人の荒くれ者であった。
 腕っぷしの強そうな男たちが、ウイスキーのボトルを片手にポーカーに興じている。まさに西部劇そのものだ。

 三人は、私がカジノの中に入ってきたのを感じ取ると、顔を上げ、鋭い視線で私をじろりと睨みつける。

「なんだ、このよそ者は?」

 ああ、なるほど。やっぱり西部劇の定番だな、と思った私は、決してひるむことなく、堂々と店の奥まで歩みを進め、カウンターにいる店主に向かって言った。

「ウイスキー、ショット」

 静寂が一瞬流れた。
 すると、ポーカーに興じていた荒くれ者の一人が立ち上がり、こちらに歩み寄ってきた。
 顔は怖いが、どこかコミカルな面持ちで、私に向かってこう言うのだった。

「おいおい、ここにはよそ者に飲ませる酒なんて置いてねぇんだよ。とっとと帰ってママのおっぱいでも吸ってな」

 私は一度、もともと細かった目をさらに細めて相手を軽く一瞥し、そして、腰に携えていた刀をサッと引き抜いた。
 そして無駄のない一振りで、刀はそのまま鞘に収まる。

 その動きがあまりに軽やかだったので、周りの空気が一瞬固まった。
 私に因縁をつけてきた荒くれ者のガンマンもポカンとした表情をしている。

 そして、私はカウンターにいる店主を呼びつけた。

「この御仁、どうやら母上殿の母乳を欲しているようだ。牛乳をたっぷりくれてやってくれんかね?」

 それを聞いたガンマンが顔を真っ赤にして激高した!

「なんだとっ!この野郎!」

 怒りに我を忘れた荒くれ者は、さっと右手を引くと、腰につけてあったリボルバーの場所にその手を伸ばした。
 その瞬間、ガンマンの腰に吊るされたリボルバーが、ズボンと一緒に床にごろんと落ちる音が響き渡った。
 そして、その荒くれ者は、まるで赤ん坊のように可愛いパンツ一枚で、右手をパーに広げた状態でそこで立ち尽くしていた。

 他の二人も、慌てて腰の銃を握りしめていたが、手が震えているようだ。

 それぞれの顔に浮かぶ表情は、まるで本物の“赤ん坊”そのものであり、私が優しく睨みつけると、右手を添えていたリボルバーからそっと手を離し、私の前でパンツ一丁で立ち尽くしている大男の両腕を抱えてバーから出て行ってしまった。

「また、つまらぬものを斬ってしまった」

 そして私の周囲の空気は一転して不思議な和やかさに包まれたのであった。

 まさに、今ここで繰り広げられているのは、西部劇でもなんでもなく――ただの夢のような光景。まさにそんな世界観の店であった。

 もちろん、実際にそんな荒くれ者たちはいなかったし、私は腰に刀など携えてはいない。それに私はウイスキーを飲んだこともないので、カウンターで頼めるはずもない。そもそもショットが何を意味するのかも知らない。

 加えていうなら私は英語が分からない。荒くれ者が何と言おうが、何を言っているかわかるはずもない──でも、そんな雰囲気だったのだ。

 しかし、ここからは私の妄想の世界ではなく、現実である。

 そのカジノにも当然のようにその薄暗い奥にブラックジャックのテーブルが一つあった。
 ディーラーは、まるで私が来ることを知っていたかのように、静かにこちらを見てニヤリと笑った。

「ふっ、どうやら、ここでも拙者に対してひと勝負を挑んでいるようだな」

 私は静かに腰を下ろし、ポケットから昨晩ルクソールで稼いだ百ドル札を何枚か取り出し、ディーラーに渡す。

 コインとなって帰って来た元手をもとに私はここに一時間ほど滞在した。

 ガソリンは百ドル札一枚でおつりがくるのだが、私はその入れたガソリンの何倍ものドルをこの店のディーラーに渡したまま、おつりを貰うことなく颯爽と席を立った。

「ふっ、今日はこのくらいにしておいてやる、また会おう」

 そう言いながらまた旅に戻ろうとする私に遠くから風に乗った声が聞こえてきた。

「シェーン!カムバッーク‼」

 しかし、私は振り返ることなく、私を引き留める声を背に再び荒野に向かって馬に乗ったまま旅立つのであった。

 ――こうして私は荒野を駆け巡る冒険を終え、本城であるルクソールへと戻ってきた。

 辺りはすっかり暗くなり、建物は一斉にきらびやかな照明で彩られた。まるで最後の夜に、私のパンツとモモヒキ以外を全て吸い取ろうとする悪魔の輝きのようであった。

 イチローの試合開始まであと二十四時間──寝ている時間などない。私は最後の力を振り絞り、最後の戦いに備えた。

 ──億万長者か、荒野にモモヒキ一丁か。

 そうだ、絶対に守らなければならないルールがある。酒は飲むな。そしてカジノにも飲まれるな。である。

 ルクソールのカジノは相変わらず熱気に満ちていた。
 だが今夜は違う。私の目には、まるで決戦前夜の戦場だ。昨晩のようにこの雰囲気に流されてはいけない。

 テーブルに着いた瞬間、私は自分の中で何かが切り替わるのを感じた。背筋を伸ばし、呼吸を整え、視線はディーラーの指先とカードに集中する。もう余計な雑念は一切なかった。

 ルールはもはや完璧だ。二枚のカードの合計から二十一を超えないようにヒットするだけだ。流れも、確率も、体にすべて染み込んでいた。
 カードが配られるたび、脳が電卓のように即座に計算し、次の一手が浮かぶ。勝てる勝負にだけ手を出し、欲張らず、怯まず、冷静に。

 ――これは人生の象徴だ。無謀だったかもしれないが、私はやり切ったのだ。

 その後の記憶は若干曖昧だが、確かに私は”勝った”のである。

 来た時と同じモモヒキの上にちゃんとズボンを履き、財布の中の現金はほとんどなくなったような気もするが、きっとチップを気前よく渡した結果だろう。

 他に取られたものなど何ひとつない。

 ――つまり、”大勝”であった。

 私は決して負けてはいない。億万長者にはなれなかっただけである。

 そして、あぁ人生でこれほどまでに充実した四十八時間は自分の人生では他にはないであろう。
 まさに人生を凝縮したといってもよい充実した時間を過ごしたものだ。

 あれれ、足がふわふわし、ま、まっすぐ歩けないのが、こ、これも、お、恐らく気のせいであろう。たたたぶん。

 私は、後ろ髪惹かれる想いでラスベガスを後にし、北の地シアトルへと向かう便に乗り込んだ。

 さらばラスベガスよ。さらば。

 いずれまたすぐに来るだろう。その時は、墓か伝説か――

 しかし、ああ、イチローよ。私はさらなる興奮に取り憑かれたのだ——。

 ────こうして私はこのアメリカ旅行から帰国した後、イチローのことなどすっかり忘れ、人生のほぼすべての情熱をカジノ・ブラックジャック攻略に注ぐようになる。

 日本に帰ってからの私は、このたった四十八時間の旅が忘れられず、ブラックジャック戦略の全てを頭に叩き込むため昼夜を問わず特訓を続けた。

 二十一までの計算は誰よりも早くなった。
 そして、ラスベガスでの敗因はディーラーのカードを見なかったことだと気付く。そしてダブルダウンだ!(最初の四十八時間に私はスプリットも、ダブルダウンも知らなかった。詳しくは次の章で説明しよう)

 そうか、やはり生死を賭ける戦いにはそれなりの準備が必要だ。

 こうして、長い長い訓練を経て自信を得た私は『マカオ』も攻略し、韓国カジノも制覇した。もはや私に恐れるものなど何もない。

 父─昇の声が天から聞こえる。

「よし坊、博打はやっても構わねえ。ただし、女房と子供を泣かせるんじゃねえぞ」

 昇よ、私は第二の人生をこれに賭ける。しかし家庭を崩壊させない範囲で戦うことは誓おう。

「まさ子、またカジノに行くから金を用意しといて」

「え?また行くの?あんた馬鹿?」

「おう、あと息子よ、またチケット取って、通訳頼む」

「またかよ、勘弁してよ」

 父よ、私は女房と子供を泣かせてはいない。

 彼らは、ただ私を呆れる程度に収めたのだ。

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