第二十七話 佐渡ヶ島 哀しみ航路
生きている者は、時に生き残った者となり、見送る宿命を背負う。ということであろう。
人は愛する者の死に耐えきれず、時にその現実から逃れるようにボケるのだという。私は今もなお認識ははっきりしているつもりだが、その感覚はどこか理解できる気がする。まさ子の死に直面したときも、私はなぜか現実感を失い、まるで遠い別世界の物語のように眺めていた。まさ子は私の女房だった。それなのに、まるで小説の登場人物の死を俯瞰しているような、不思議な達観が私を包んだのだ。
私は既に年を取り、八十代も後半に差し掛かっていた。山本も死んで何年も経ったであろう、私は二度と訪れないと思っていた佐渡でひとつだけ心残りがあった。
──山本の墓参りである。
人生の最後になっても構わないので、山本の墓に行き手を合わせ、そして可能なら最後に佐渡の姿をこの細い目に焼き付けたい。
と考えていた。
しかし、この時には私も年を取り、ひとりで行く自信がない。ということで当時、同居していて喧嘩中だった次男に頭を下げ、なんとか佐渡に連れて行ってもらうことにした。
山本の墓がある北片辺は私と同じ東京生まれの東京育ちの息子も何度も連れて行った村であり、息子も十何年ぶりということで、喧嘩を一時休戦にして、二人にとって久しぶりの里帰りの旅になった。
時はちょうどコロナが明けた後であった。コロナは明けたとはいえ、人込みを避けたかったため、私たちは夏の観光シーズンを迎える前の春の平日を選んだ。
かつて山本と徹夜で駆け抜けた関越道も、この日は穏やかに流れていた。私は息子の運転に身を任せ、何度も通ったこの景色を目に焼き付けるかのように、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
久しぶりに乗る佐渡汽船では、やはり儀式のようにかっぱえびせんを買って欄干に立った。
しかし、周囲を見渡してもカモメの姿は見当たらない。新潟の港は緑も少なく、海の色は泥が混じった土色で、生き物が住むには適していないように見えた。
時代が変わり、カモメももういなくなったのだろうか。私は買ってきたかっぱえびせんをポリポリと食べながら、数本を海に投げ入れた。
「アーアー」
いないと思っていたカモメが、どこからともなく現れ、一羽、二羽と集まり始め、気づけば何十羽ものカモメに囲まれていた。
「なんだ、お前ら、どこに隠れてやがったんだ?元気にしてたか?」
私はまるで三軒茶屋の昔、悪友とつるんだ路地裏で旧友と会うかのようにカモメに挨拶した。
カモメたちは七十年前のあの日と変わらず、順番を守るかのように船の周りを飛び、私の前で羽ばたいては器用にかっぱえびせんを摘んでいく。
買ってきたかっぱえびせんはあっという間になくなり、私は息子に追加で三袋ほど買わせた。(ちゃんと昔と変わらず、船の売店で売っているが、値段は高くなっていた。)
コロナも明けた影響か、船には大勢の小学生の修学旅行客もいて、エサをねだるカモメに興味津々だった。先生は子供たちからねだられたのであろう、小袋にわけたかっぱえびせんを持ってきてそれぞれの子に渡し、私の横で真似をしながら投げ始めた。
私はカモメだけじゃなく、私の孫より小さな子供たちに囲まれてしまった。
もし私がいなくなっても、お前らはこの子たちからもらえばいいんだから、もう心配いらないな。そんな風に思い、何だか少しホッとした。
そして、いつまでも佐渡汽船とともに元気でいるんだぞ、とカモメに挨拶をしあとは小学生たちに任せて船内に戻った。
今回は息子の車で来たので、カーフェリーで佐渡に上陸だ。両津港に着くとコロナの打撃は深刻だったようで、港周辺は活気がなく、荒れ果てた雰囲気に見えた。観光案内所に寄ってみるも、人さえおらず地図と宿の電話番号が書かれた紙を受け取っただけで外に出た。
久しぶりに見る佐渡は変わったようでもあり、変わっていないようにも見えた。
佐渡は、大佐渡という大きな山を抱えた北の部分と、小さな山が連なる小佐渡、その両方に挟まれた国仲平野の三つに大きく分けられる。おけさ音頭やたらい船で有名なのが小佐渡で、金山で知られるのが大佐渡だ。
山本の家は大佐渡の相川から更に北に上ったところにあるが、普通の人は用事がなければ行かないような奥地にある。
また、現代の佐渡の若い住民は皆、国仲平野に家を建てて住むようになっているようだ。本島でも見られるようなチェーン店が国仲平野にも点在していた。これは今までにはなかった変化であった。
車は一路、相川を目指した。いわずもがな、世界遺産登録を目指している金山の町である。まあ町といっても東京育ちの自分からしてみると村といっても過言ではない規模の小さな町だ。
そこから二十キロほど北上したところに片辺はある。私が初めて行ったときとくらべると道路も整備され、今なら自家用車があれば相川から三十分くらいで到着できる。
初めて行ったときはバスを待つ時間も合わせて、ここから二~三時間は覚悟する距離であった。この距離を山本は中学時代毎日歩いて通ったというのだから恐れ入る。
さて、相川で山本の墓参り用の花を手に入れ、山本の女房の山本かよさんに電話をした。
「おう、今、相川に着いた。これから向かうよ」
「分かったで。気いつけてな。でも食べるものは何もないで、自分でなんとかしてくれ」
私もそうだが、かよさんも年を取ったのである。昔は山盛りの料理を用意してもらい佐渡名物でもてなしてくれたのだが、今ではそれも難しいのだろう。しかし、物量に囲まれた東京でもひとりで生活するのは大変なのに、こんな僻地で今も生活しているのだから大したものだ。
息子が運転する車は見覚えのある海岸沿いの道を抜け一路北上した。
尖閣湾、安寿と厨子王の記念碑、 私が行かなくなってから開通した南片辺トンネルと。ここを抜けるともう目の前が片辺の部落である。
私が北片辺に数多く通った時にはまだこのトンネルはなく、海岸の岩場を縫うように走る峠道しかなかった。一歩間違えると断崖絶壁で海へ真っ逆さまである。この道を何とか抜けると眼下に片辺の部落がぱーと広がってみえてきて
「あぁ、またやっと帰って来たなぁ」
と思うのであった。
しかし今では、この道は途中の畑に通じるところまでしか残っていない。当時の片辺の人々は、日常品を買いに行くために、この険しい道を使って相川まで通っており、事故も絶えなかったと聞いている。山本の叔父も、この峠道で事故に遭い、命を落としたと聞いた。

北片辺の山本の墓は、山本の家から1分のところに立つ、部落の守りに立つ龍金岩につながる岬の根元にあった。この龍金岩のすぐ下に建つ竜王大明神のお宮さんは山本が棟梁を引退し、ここ北片辺に戻って仕上げた最後の作品である。
山本の墓は、持参した花を飾る場所がないほどに花で彩られていた。きっと女房のかよさんが、痛む膝を引きずりながらも毎日手向けに来ているのだろう。
山本は六十歳過ぎて棟梁を辞め、片辺に帰ったのに、部落では若者扱いされてあれこれやらされて大変な目にあっているとよくこぼしていた。六十歳過ぎた爺が若者ってね・・・
私はしばらく山本の墓で、やってきたよと挨拶を告げると、何度も泊った山本の家に行き、女房のかよさんと昔話をして盛り上がり、最後には涙を流して抱き合ったのだった。お互いに昭和時代を駆け抜けた同志であり、言葉にしなくても沢山の楽しい思い出、つらい思い出の記憶がよみがえって来るのだった。
山本の家を後にし、相川に戻る道すがら、私たちは、何度も家族で訪れた思い出の地・尖閣湾に寄ってみた。
尖閣湾は、日本海の荒波が削り出した断崖絶壁が連なる名勝で、佐渡屈指の観光地である。かつては観光客で賑わっていたこの場所も、すっかりさびれてしまい、平日だったこともあり人もまばらであった。
それでも変わらぬ景色と、あの頃と同じ香ばしく焼き上がったイカを頬張りながら、夕闇が迫る海を眺めていた。そんな時、息子がふと提案した。
「せっかくだから今日は泊まっていかないか? 明るい時間に船に乗った方が景色もよく見えるし、もう少しだけ佐渡を満喫しようよ。」
私も頷き、その場で急遽宿を取ることにした。尖閣湾からほど近い『尖閣荘』という昔ながらの民宿に飛び込みで泊まることにした。
宿には他に、コロナ明けで旅行に来ていた妙齢の女性客が二人いただけだったが、亭主とおかみさんは快く迎え入れてくれた。
思ったよりも若い夫婦で、中学生の子供を育てていた。その子は相川の中学校に通っている山本の後輩で、まさに土地に根付いた生活を営む生粋の佐渡人だった。
その夜は風が強く、私が佐渡では経験したことのない荒れた夜だった。窓は一晩中びゅーびゅーガタガタと風が当たり、なかなか寝付けなかった。
翌朝、おかみさんに「昨晩はずいぶんと荒れた夜だったね」と声をかけると
「え?昨日がですか?あんなのは大したことないですよ。春から夏にかけての佐渡は台風もここまで来ることは滅多にないし、日本海も静かで過ごしやすいですけど、秋から冬にかけての日本海の荒波はもう目をあけて歩けないくらい酷いですよ」
と笑いながら話してくれた。私ははっとした。
そういえば山本は
「冬は来るんじゃねえ。夏に来い」
とばかり言っていた。
当時はそんなもんだろうな、夏なら海で泳げるからいいな、なんて気軽な感じで聞いていたが、本当は冬の厳しい佐渡は見せたくなかっただけではないかと。
尖閣荘のおかみにお土産を買える店を聞き、姫津港の店に向かった。そこの店主からも
「コロナの間は新潟にいた娘も三年帰ってこれなかった。本土からの客は全くいなくなり、完全に島は死の島と化した」
と聞いた。
東京は何でもそろっている。困ったら誰かが助けに来てくれる。しかし佐渡には人さえもいなかったのだ。
私が想っていた佐渡は、私が想っていたよりも遥かに人が住むには過酷な環境だったのである。
七十年前に初めて来た時と全く同じように後ろ髪を引かれながらフェリーの欄干にもたれ、遠ざかる佐渡を眺めていた。
頭のどこかではわかっていたことなのに、私は決して向きあおうとしなかった佐渡の真実、そしてその厳しさ。それを最後の旅で突きつけられた今、これを一切言わずに先に逝った山本を恨まずにはいられなかった。
「やま、てめえ、隠してやがったな……もうすぐそっちに行って文句を言ってやるから、覚悟してろよ」
そう呟いた私の耳に、不意に懐かしい声が響いた。
「やべえ、ばれちまったか。じゃあ次は厳冬の佐渡に来いよ。相川から北片辺まで雪の積もった峠道を、お前じゃ決して越えられねえからよ、へへへ」
太く、ひょうひょうとしたあの笑い声で、欄干の向こうに山本が立っていた。煙草をくわえ、肩を揺らしながら、いつものように私をからかっている。
あの日、山本と共に初めて渡った佐渡と、今まさに離れゆく佐渡は何も変わらなかった。
潮風に乗って、カモメたちが船を追いかけてくる。その翼はまるで、かつての悪友たちが、
「まだ帰るなよー。もっと遊ぼうぜー」
とでも言うように、しつこく私を引き留めるのだった。
やがて、佐渡は靄に包まれ、輪郭を曖昧にしていく。遠ざかる景色は、次第に記憶の奥へと沈んでいくようだった。それでも私は、目を凝らして佐渡を見つめ続けたが、視界がわずかに滲んだ。きっと海風のせいだろう。
そして佐渡は、静かに、ゆっくりと私の視界から消え去っていった。まるで、時の彼方へと溶け込むかのように。

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