novel-26

第二十六話 コロナと通帳

 まさ子は通帳と共に生きた女だった。

 それは決して大げさな表現ではない。彼女はサンネームの経理を長年支え続け、数字の世界に生きていた。
 収支を確認し、帳簿を整え、金額を細かくチェックし、ムサシ電機のおやじさんに言われた約束を守れず、従業員の数が数十人と多くなっても欠かさず夜遅くまで給与計算をしていた姿は実に頼もしかった。

 通帳を開けば自分の努力と人生が形になって表されている。それが彼女の生きがいだったのだ。

 しかし、晩年にまさ子はその通帳を手放した。

「姉ちゃんは、金の計算していればボケないよ」

 と、まさ子の弟が言っていた通りだ。経理を引退した途端、彼女は金の計算をやめ、途端に認知と体力が急激に衰え、あれほど楽しみにしていた郵便局巡りにも行きたがらなくなった。
 まるで通帳と共に彼女の気力までも失われてしまったかのようだった。

 さらに追い打ちをかけるように、持病の糖尿病が悪化し、彼女は長期の入院生活を余儀なくされてしまう。

 かつては通帳を眺めながら

「これであそこの支払いができるわね」

 とか、

「見て、今日はお得意さんから沢山振り込んでもらえたわ」

 と、生き生きしていたまさ子は、もういなくなってしまった。

 見舞いに行くたびに、彼女の声はか細くなり、耳も遠くなり、自分の知らない人に変わっていく様をただただ眺めているしかできなくなった。

 そして、世間には新たな恐怖が蔓延した。

 かつて誰も経験したことのない流行性の病――コロナウイルスが、病院の扉を重く閉ざしたのだ。

 家族でさえ面会は週に一度だけ、それもわずか数分。
 彼女は何かを言いたそうに唇を動かしたが、マスク越しでは声はほとんど聞き取れない。

 今までは

「おい」

 とだけ言えば

「何よ」

 という会話だけでもそばにいることを実感できたのに、

「人はこんなにも遠くなるものなのか」

 と、置かれた環境にただただ打ちのめされるしかない自分がいるだけだった。

 残された私は、生活費を確保するために二人の貯金を引き出そうとした。今までだったら、

「おい、まさ子、五十万降ろしておけ」

 というだけで、サンネームの金庫には当然のように五十万が置かれ、

「おい、パチンコ行くから十万取るぞ」

 というだけで、サンネームの帳簿に自動的に『社長給与十万』書き込まれていた。

 しかし、まさ子の体調が悪くなってからはこうもいかなくなった。加えて、彼女がどこにいくら入れて、どこから出していたのかさえも、もはや彼女自身が覚えていないという現実に混乱した。

 それでも私は銀行へ何度も足を運んだ。だが、窓口で言い渡されたのは無情な言葉だった。

「これはまさ子さん名義の定期預金ですね」

 私がいくら説明してもダメだった。

「奥様が名義人ですので、ご本人でなければおろせません」

と、銀行員は事務的に繰り返すばかりだった。

 ――私が稼いだ金なのに。ふたりで汗水流して築いた金なのに。

 預金通帳はまさ子の名義であり、彼女がいない限り、この残された通帳はただの紙切れだった。まさ子のいない預金はまるで鍵のない金庫のように手が届かなかったのだ。

 それでも私は生活に困ることはなかった。年金も入り、まだサンネームからの収入もあったから、なんとかやりくりはできた。
 だが、問題は、いくらの貯金がどこに眠っているのか、まるでわからないことだった。それを調べるには、まさ子本人が銀行に行く必要がある。
 しかし、彼女はすでに病院のベッドの上で動けず、口座を確認するには、銀行員に病院まで来てもらうしかない。けれども、当時はコロナ禍のまっただ中。病院は家族以外の入室を固く拒んでいた。

 「家族でさえ週に一度だけの面会なのに、銀行員を呼ぶなど到底許可できません」

 看護師の言葉は冷たく、毅然としていた。
 世間では毎日コロナで亡くなる人の数を報道していた。そのため、これは病院にとっては当然の対応だった。だが、私はその現実を受け入れることができなかった。
 まさ子はここにいる。私もここにいる。それなのに、まさ子が宝物のように大事にしていた通帳に触れさせることさえできない。

 それが、何より悔しかった。

 ところが、である。

 まるで神様が味方してくれたかのように、ちょうどこの時期にコロナは五類へと引き下げられた。病院も家族以外の面会を許可したのだった。

 更に加えてこの頃、まさ子は前々回の話にもあったように、驚くほど回復していた。去年までほぼ寝たきりだった彼女が、認知も体力も取り戻していった姿は、まさに奇跡としか言いようがなかった。
 そうして、二人で貯めたお金を可愛い孫たちの未来に託すことができた。教育信託という形で——。

 私は神の存在など信じていない。しかし本当に神様はいるのではないかと思った。あの時、まさ子のためにコロナを収束させ、再び認知力を戻してくれたのだと。

 しかし、まさ子はこの全ての手続きが終わった約一か月後に、病院で誰にも看取られず自ら呼吸を止め、八十四年の生涯を閉じた。

 この日の朝、病院から電話をもらった私は愕然とし、あまりの突然の話に半信半疑に陥った。

 私よりも三歳も年下だったまさ子がまさか自分より先に逝くなんてあり得るはずがない。まさ子には謝らなくてはならないことや、まだ行っていない二人で行こうと約束してい場所が山ほどある。まさ子は嫌がっていたが私が晩年行きたくてたまらなかったラスベガスにだって本当に連れて行くつもりだったのだ。

 そういった私の想いを他所に病院から連絡をもらってすぐに駆け付けた時にはまさ子はすでに呼吸と心臓が止まっており、体が徐々に冷え始めていた。

 何度も人の死を見てきた自分であったが、自分の女房の死は悲しいというより本当に頭が真っ白になり何も考えられなくなるものだと知った。

 二人がまだ付き合う前に初めて握った七十年前のあの柔らかかったまさ子の手が、徐々に冷たく固くなっていく現実に私はただ打ちのめされるのだった。

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