第二十二話 小林一茶と社員旅行
かつて、私が目黒のムサシ電機に仕上工の見習いとして勤めていたころ、運悪く結核を発症してしまい、一年ほどの休職を余儀なくなれた。そのころから嗜むようになったのが俳句である。
工場の片隅で、鉄粉の舞う午後。油で黒ずんだ作業台に、指先で言葉をなぞっていた頃かもしれない。五・七・五という枠組みの中に、なぜか無限の広がりを感じていたのである。
私が実際の師は間部隆という男であった。そして俳句の憧れの師と仰ぐのは、小林一茶である。
小林一茶の句には、泥のついた足でそのまま家に上がり込んでくるような、庶民の息づかいがあった。
やせ蛙 負けるな一茶 これにあり
その句に初めて出会ったとき、私は思った――ああ、自分もこういう風に、生き物のような俳句を詠みたい、と。
ただ技巧を凝らすのではなく、日々を這いずりながら、なおも笑い、なおも踏み出す句を。
だが、句を詠むには、旅が要る。
身の回りばかり日常の風景だけでは、句は次第に煮詰まる。土と油と同じ風景のなかで、自分の思考も錆びてしまう。
間部隆師匠に連れられ旅をしていたまだ若き私も、会社の社長として責任を持つようになるとなかなか俳句行脚の旅に共に行けなくなってしまう。
だから私は、毎年の社員旅行に、ある願いを込めてきたのだ。なるべく遠くへ――見たことのない景色を、見たい。そして社員たちにも見せたいと。
旅先に選んだのは、北は北海道から南は九州まで。なるべく風光明媚な場所を選んでは毎年旅を続けた。
一茶の故郷に近い場所、一茶の旅の句の元にあった場所まで様々であった。

バスの中では、みな肩を寄せ合い、缶ビールを片手にざわついていた。普段の作業着を脱ぎ、シャツにネクタイを締めている者もいれば、旅行だからと妙に派手なアロハを着ている者もいた。
運転手のすぐ後ろの席で、私は小さなノートを取り出し、旅の句を探していた。
春の山 社員の笑みを こだまさせ
あとでこっそり誰かの机に貼ってやろう、と小さく笑った。
旅館に着けば、早速、宴会だった。
女将が挨拶をする前から、すでに瓶ビールが抜かれ、天ぷらがつままれ、笑い声が湯けむりのように立ちのぼっていた。
私は当然お茶だけを飲んでいたが、みなに付き合ってビールを小指の先ほど、乾杯で飲み込んだ。
宴が盛り上がる中、私は酒酔いによる眠気と戦いながらマイクを握った。
「――この会社を、みんなででっかくしよう。誰かのためじゃない、自分たちのためだ。泥だらけの現場でも、こうして旅先で、酒を酌み交わし、まあ俺は飲めないからお茶で許してね。とにかく語り合える仲間がいるってこと。それを、何よりの財産にしよう」
口にすれば、少し照れくさかった。だが、顔を上げると、皆が黙って私を見ていた。
その静けさに、私は心を打たれた。
それは、尊敬や賞賛ではなく、「わかってるよ」という、長年同じ汗を流した者同士の無言の頷きだった。
夜も更け、布団に潜って目を閉じても、酒の余韻と仲間の笑い声が耳の奥で渦巻いていた。
私はふと、筆を取り、暗がりの中にこう書いた。
湯けむりの 奥に見えたる わが同志
今ここにいるこの仲間たちと、どこまでいけるのか。
それはわからない。だが、信じることはできる。
小林一茶の句が、弱き者に手を差し伸べたように―― 私もまた、この会社で働く者たちの歩みに、光を添えられるような存在になりたいと願った。
そしてまた、来年も旅をしよう。もっと遠くへ。もっと深くへ。 この一句の続きを、共に詠むために。
翌朝、旅館で目を覚ました私は窓から見える霧の中に、懐かしい山々がぼんやりと浮かんでいるのを見ていた。夜の宴の名残は、まだ誰も掃除しない部屋の隅に空き瓶と、いびきの合唱として残っていた。私は布団を抜け出し、浴衣のまま、静かな廊下を歩いた。
そのまま外に出ると、霧の中、山々と川の景色が微かに見えた。どこまでも白く、冷たい空気が身に沁みる。手帳を取り出し、久しぶりに俳句を詠む気になった。
朝霧や 吾子のようなる 我が工場
あの頃、私は工場を“吾子”のように愛し、育ててきたつもりだった。しかし、いつからかその“吾子”は私の手を離れ、ついには声をかけることすらできなくなっていた。社員たちも、次第に忙しさの中で無言になり、私はそのことに目を背けてきた。信じていたのは、ただ“仲間”という言葉だけだった。
その日の朝食の席では、昨夜の宴が嘘のように静まり返り、みんながそれぞれ思い思いに黙って食事をしていた。空気の中に漂う余韻を感じつつ、私は一言だけ口にした。
「また来年も、いい旅をしましょう。もっと遠くまで行けるように、この会社を、私たちの手で育てていきましょう」
その言葉に、誰かが静かに拍手した。私はその拍手の音に耳を傾けながら、次第に思い出していた。若いころ、経営の先人たちが言っていたことを。老いてからこそ気づく真実があるということを。
数年が経ち、工場は拡大を続けた。社員も増え、忙しさはますます加速していた。私は新しい取引先との商談や、工場の設備投資に追われる日々が続き、気がつけば、現場の動向には目を向けなくなっていた。
その頃、ふとした瞬間に一茶の句が頭をよぎった。
露の世は 露の世ながら さりながら
「この世は露のように儚いものだ」と、私は一茶の心情を理解するようになった。もはや、私が工場の内情に関心を持っていた頃の姿は、過去のものとなり、代わりに見え隠れするのは忙しさと無関心が交じり合った世界だった。
工場の内部で起きていた小さな軋轢や摩擦を無視し、忙しさに甘んじていた自分を今、私は深く恥じていた。それに気づけなかった自分を、こんなにも悔しく思うなんて。
老い、何もできなくなった今、私はやっとその意味が分かるようになった。かつて、私が見過ごしてきた細やかな部分、それが今、大きな道を作るのだということを。
――仲間がいること。それだけで、人は強くなれる。
社員旅行が、ただの慰安旅行で終わらず、誰かの心の中に種を撒いてくれている――それが何よりだった。
社員旅行から戻ると、私は一人、多摩川の土手を歩いた。 川向こうには富士山が顔を出していた。
この川は、太古からここで流れ続ける。そこに陽が差し込み、氷のように冷たい空気のなかで、景色が少しずつ目を覚まし始める。
それからの数年、会社は拡大を続けた。設備が増え、従業員も増え、現場は忙しさの中で慌ただしくなっていった。
私は新規取引先との会食や、次の設備投資の段取りに忙殺されるようになり、工場の中で何が起きているのかを、直接見る時間は次第に減っていった。
いや、本当のところは――私は、見ようとしなかったのかもしれない。
「現場は任せた」と、口では信頼と言いながら、現場の軋轢やトラブル、人の摩擦といった“ややこしいこと”は、すべて工場長の工藤に押しつけた。
工藤はよくやってくれたと思う。非常にアイデアに優れた技術者でもあり、私よりも現場の空気を読む力があった。しかし、そんな彼にも限界はあった。
「社長、そろそろ見に来てくださいよ。中、かなりきしみ始めてます」
何度か、彼はそう言った。だが私は、曖昧に笑ってうなずくだけだった。年始の挨拶や全体会議では、「うちの強みは人です」と誇らしげに言いながら、その“人”の内側が崩れかけていることに、目を背けていた。
“仲間がいる。それだけで、人は強くなれる”――そう信じていた。でも、それは“手を離さない努力”を続けてこそ成立するものだったのだ。
私は、その努力を途中でやめてしまった。
ある日、私は再び一茶の句を思い出した。
我と来て 遊べや親の ない雀
私はかつて、「みんなで一緒に遊ぼう」と言った。その言葉が、今となっては空虚に響く。それぞれの社員に親のような支えを与えられなかった自分に、心の底から悔いが募った。
私もまた、孤独な“雀”になってしまっていたのだと。
それからも、私は何度もこの思いを繰り返し、静かに深く反省していった。
鳴くからに 蛙の子にも 情あり
小さな命に情があるように、私もまた、細やかな部分に目を向けるべきだった。工場の“蛙”たちは、それぞれが精一杯頑張っていたのだと、今さらながら気づく。彼らの声を無視していた自分が、まるで情のない冷たい存在であったことに、心の中で泣けてくる。
そして、最期に思うのは、一茶のこの句だった。
大根引き 大根で道を 教えけり
老い、何もできなくなった今、私はやっとその意味が分かるようになった。かつて、私が見過ごしてきた細やかな部分、それが今、大きな道を作るのだということを。
もう私は、現場に手を差し伸べることができない。それが何よりも悔しい。だが、この悔しさだけは、私の心に深く刻み込んでおこうと思った。
もし、もう少し私が前に進めるのならもう一度やりなおしたい。
そして、小林一茶が辿った道を歩き、私も自分の句を作り、そして残したい。
そう心に願うのであった。
<ホーム>