第二十一話 山本工務店と多摩川の砂利
山本が棟梁として独り立ちし、山本工務店という注文住宅を扱うようになったのには私が喜多見に土地を買い、初めての棟梁の仕事としてやらせたことがきっかけとなったのは間違いないだろう。
その山本が作った尾城製作所は、木造の工場兼自宅だった。
コストが安く、短期間で建てられる。それが木造を選んだ理由だ。だが、本当の決め手は別にあった。
木造は壁を壊せばすぐに拡張できる。仕事が増えれば、工場も広げればいい。そんな柔軟さが、私の会社の成長を支えたのだった。
この点に、私も山本も最初は気づかなかった。いや、もしかすると山本は気づいていたかもしれない。だが、できれば増改築は避けたかったに違いない。
しかし、増築や改築はもはや日常茶飯事のように繰り返された。私はそのすべてを山本工務店に依頼した。
「やま、十二トンクラスの機械を入れる部屋を今すぐ作ってくれ」
「おいおい。今ちょうど子供部屋を作らせてる最中なんだけどなぁ」
終始、この調子である。こんな無茶ぶりを、山本はいつものように嫌そうな顔をしながらも引き受けた。
尾城製作所が業績を拡大するには、新しい機械と設置場所が今すぐに必要だった。山本工務店の都合など、正直構っていられない状況だった。
私は当時、『無茶はしないが無理はする』と工場長の河上を鼓舞し、無理を承知で何でも受注した。そして、なんとしてでも納品しなければ仕事はすぐに他所へ流れてしまう。
山本工務店が間に合わなければ、使用頻度の低い機械は外に出し、形ばかりのトタン屋根を雨よけに設けた。必要なときだけ、風の日も雪の日も、毎晩日付が変わるまで働き続けた。
ムサシ電機で学んだ『機械を大事にする』精神を守りたかったが、世間の要求はそれを上回った。とてもじゃないが、機械のことまで気に掛ける余裕はなかった。
それでも、山本は親友だからこそ、私の無理な要求に頭ごなしに『できない』とは言わなかった。いつも苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、結局はほぼすべての要望に応えてくれた。
だが、これが結果として、山本工務店にとって主力事業となる『注文住宅』の柔軟な対応力につながったのだから面白い。無理難題に応え続けたことで、山本工務店には優秀な建築設計士が育ち、やがて都内に数々の素晴らしい家を生み出す礎となった。
この時代は、まさに大変だったが、やり甲斐は非常に大きかった。
尾城製作所も山本工務店も、その言葉の通り、まさに寝る間を惜しんで働いた。山本の建築工事が少しでも遅れれば、まったく関係のない会社の新製品の製造ラインが止まる――そんな綱渡りの日々だった。
これこそが、日本の高度成長期からバブル期へと向かう製造業の真の姿だった。
結局、建て増しは合計で八回以上を数え、もはや原型が想像できないほどになっていた。工場を続けながら二階に住居部分を作り、人が住んでいる間に工場を建て増していくという、今なら絶対に認められないような難工事を、山本は見事にこなしてくれた。
それからしばらく経ち、昭和が終わってしばらく経った平成三年のことだ。
私は有限会社から株式会社へと登記変更を決め、社名も改めて新たに会社を設立することを宣言した。 これは、城戸が既に会社を去り、工場長であった河上から若者へと世代交代が進んでいた時期であり、まさに未来への橋渡しをするかのようなタイミングだった。
会社名は社員の公募と投票によって選ばれ、パート社員が考えた
「太陽のように明るくネームプレートを生み出す会社」
という願いが込められ「サンネーム」と名を社員全員の投票の上、採用した。新たな船出に、私の胸は希望で満ちていた。
平成四年、株式会社に改組してすぐの頃、私は木造の建物を解体し、鉄筋構造の工場を新設することを決断した。いよいよ時代は、二十トン、三十トンクラスのプレス機が主流となりつつあった。木造で土台が土間の工場では、とてもではないが、この重さの機械を支えることはできないのだ。
この建て替え工事も、親友の山本工務店に依頼した。さらに私は、
「事業を止めずに一期工事と二期工事で建物を半分ずつ作る」
という無茶な注文を山本に押し付けたがいつものように嫌そうな顔をしつつ
「しょうがねえな」
とだけ答えた。
しかし、工事が始まると、いきなり難題に直面してしまった。この土地は多摩川流域に位置しており、地盤が非常に弱かった。深く掘っても土とゴミばかりで、砂利の層に全く到達しなかったのだ。土台費用だけで予算は当初の予想の一・五倍を超えてしまった。
「よっちゃんよ、お前には騙された。とんでもない赤字の工事になった」
山本は後にそう語ったが、私はなんとかごまかした。
「やま、ありがとう。これでまた一歩前へ進める。ただ赤字になった額は必ず返すが、今は金がない。申し訳ないが月賦払いとさせてくれ」
私は新たな工場の竣工式で皆の顔を見ながら挨拶を行い、工場の出来上がり具合に満足していた。鉄筋で床は振動に耐えられるコンクリート製。これなら十分に重い設備でも置いて大きな仕事も請け負える。
新しい『サンネーム』の看板もこしらえ、私は新たな未来に向かって歩き出したのである。
さて、二階の住居部の設計時のことだ。まさ子は山本工務店の設計士にいくつかの要望を伝えた。
「二階を住居スペースにして、独立した玄関を作ってほしい。それから、住居部分は木造にして、将来的に壊せるようにしてほしい。」
その理由の一つは、以前の家には玄関がなかったことにある。正確には、木造だった尾城製作所時代、二階へ上がる階段は直接ドアに繋がっており、主となる玄関は工場の入口を兼ねていた。そのため、工場を通って住居部分へ入る構造になっていたのだ。工場の利便性が最優先された結果、住居専用の玄関を作る余裕などなかったのである。
まさ子はこの不便さに長年不満を抱いており、今度こそ立派な玄関を作ってほしいと強く希望した。
一方、工場部分は鉄筋コンクリート造りで、山本とともにじっくりと時間と資金をかけ、何十年も持つように基礎からしっかりと造られた。しかし、まさ子はあえて二階を木造にすることにこだわった。それは、この家を”完成形”とするのではなく、将来の世代が自由に改装し、自分たちの暮らしに合った形へと作り変えていけるようにするためだった。
まさ子の両親は貧しさから家を持つことができず、結局同居もしなかった。しかし、彼女は幸運にも自分の家を持つことができた。両親と自分の境遇を重ね合わせたまさ子は、生活が目まぐるしく変わる中で増築や建て替えを繰り返してきた自身の経験から、こう考えたのだ。
「家は住む人の人生とともに変わっていくもの。時代や暮らしの形に縛られず、自由に作り変えられるようにしたい。」
家という”箱”にこだわらない——かつての木造だった尾城製作所の上にあった自宅がそうであったように、それがまさ子にとっての「暮らす」という幸せだった。この願いを設計士に託したのだ。
さて、新しい強固な工場と、立派な玄関を持つ棲家がついに完成した。サンネームも次の時代に向けて着実に成長を続けていた。
ちょうどこの頃、次男が理工系の大学を卒業した。私は以前から、手先が器用で、ものづくりが好きな次男を自分の後継者にと考えていた。しかし、彼は私の期待に反し、世界的に名の知れた電機メーカーへの就職を決めてしまったのだ。
「お前、どうしてうちに入らないんだ?」
問いかける私に、次男はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「・・・悪いけど、町工場に就職する気はないよ。サンネームに入るのは、自分の人生の選択肢の中でも四番目か五番目だ。」
私はショックを受けた。サンネームの未来と自分の人生設計が、一瞬で崩れ去ったようだった。しかし、その時ふと父・昇の言葉が蘇った。
「よし坊、博打は構わねえ。ただし、女房と子供を泣かせるんじゃねえぞ」
最初は賭け事の話だと思っていたが、よく考えると、人生もまた博打のようなものだ。息子が自分の人生を賭け、より高い競争の場で夢を追うと決めたなら、私の都合でその道を引き留め、夢を諦めさせるような真似はしてはいけない——時代も、もはやそんな時代ではない。
私は改めて、自分の力でもう一度この会社を強くしていこうと心に誓うのだった。
しかし、サンネームは着実に歩みを進めていたが、やがて私も年を取り成長が鈍っていくのを、次第に実感するようになっていった。
そんな時、皮肉なことに——かつて「サンネームは人生の選択肢で四番目か五番目だ」と言い放った息子が、世界の大企業で修行を積み、豊富な経験を携えて戻り、年老いた私を救おうと手を差し伸べてくれようとする。だが、会社の運営方針を巡って激しくぶつかり合い、六十年守り続けてきた私の誇りは、無残にも傷つけられた。私は怒りのあまり、とうとうその息子を家から追い出してしまった——まさか、そんな日が来るとは思いもしなかった。
それも、また別の話で語ることにしよう。
だが、たとえ親子がすれ違おうとも、私たちが築いてきたものは、決して揺らぐことはない。
若き日の私と山本は、知識も資金もない中で、試行錯誤と情熱だけを頼りに、ただひたすら手を動かしていた。
失敗しては悔しがり、時に笑い合い、時に怒鳴り合いながら、それでも諦めず積み上げてきたのが、この“新生サンネーム”だった。

その土台は、多摩川の砂利層の奥深くまでしっかりと根を張り、いくつもの季節を越えても、喜多見の地にしがみつくようにして生き続けてきた。
それは、まるで私たち自身のようだった。
風に吹かれても、雨に打たれても、そう簡単には倒れない。
川は静かに流れ続ける。
時代もまた、川の流れのように、気がつけば風景を変えていく。
人の心も、会社の姿も、私の役割も、やがて変わっていくのだろう。
けれど、それでいい。
たとえすべての記憶が薄れてしまっても——
この地の風が、かすかな残響として、それを覚えていてくれるはずだ。
私たちは確かにここにいたのだ。
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