novel-18

第十六話 民商とインテリ青年

 私には、尾城製作所の社長という肩書のほかに、もう一つ、外すことのできない「顔」がある。

 それは――玉川民商(たまがわみんしょう)の会長という立場だ。

 民商とは「民主商工会」の略称であり、もともとは中小企業や個人商店の経営者たちが、理不尽な国からの圧力や税金の取り立てに対抗するために生まれた団体である。全国各地に存在し、ここ城西地区では「玉川民商」がその役割を担っている。

 今も昔も、中小企業にとって税金対策は悩みの種だ。税の仕組みを知らなければ、知らない分だけ多く取られてしまう――そんな風にできているのだ。

 大企業は腕利きの税理士を雇い、政治家に献金すらして、堂々と“裏口”を通って得をする。つまり、町工場のような我々は、「知らぬこと」を理由に、見えない搾取を受け続けているのである。

 民商の仕事は、そんな中小企業の「知らない」を「知る」に変えることだ。

 そして必要とあらば、税務署との「話し合い」の席にも、共に立つ。

 ……いや、時には話し合いでは済まないことだって、あるのだ。

 税務署が強引に調査に乗り込んできたり、理不尽な追徴を突きつけて呼び出しをしてくることもしょっちゅうある。そんなとき、黙ってうなずいているだけでは、町工場の生活は守れない。

 だからこそ、民商は“会”であると同時に、“盾”でなければならない。

 私たちは、会員という形で仲間を迎え入れ、会費をいただく代わりに――税務署と渡り合うための知識と技術を提供する。そして必要とあらば、会員と肩を並べ、税務署に赴き、真正面から税務署と対峙する。それが、民商のもう一つの顔なのだ。

 私がまだ尾城製作所を立ち上げる前の昭和三十年頃のこと。私は民青(みんせい=民主青年同盟)の世田谷地区委員会に所属して、文化部長を務めていた。
 当時立ち上げたばかりの世田谷区の民主商工会は、民青の若者に声をかけて事業の協力を求めていた。当時の世田谷民商の事務局長が

「尾上くん、民商の活動に協力してくれないか?」

 と、声をかけてきた。当時世田谷区に民青員は二十代の若者が十人以下程度しかいなかったが、そこでリーダーを務めていた私に、声をかけてきたという流れだった。

 私は基本的には頼まれたら断らないというのをモットーとしていた。喜んで参加して協力することに合意したのだが、後でまさか何十年にもわたって私の人生に影響してくるのだから人生というのは全く読めないのである。

 こうして私は結局世田谷民青員から世田谷民商の構成員となる。
 その後、世田谷民商の副会長という立場にまで就くことになるのだが、時を同じくして、私は自分の会社として独立した。
 そして、新しい工場を建てる時に同じ世田谷の地を選んだことで、世田谷民商の発展に協力したのだ。
 現在、世田谷には世田谷民商の他、玉川民商と北沢民商があるが、当時は区役所の近くにある世田谷民商しかなかった。

 私は民青からの民商の構成員として世田谷民商に参加して、班長、理事、支部長、実施部長、常任理事とトントン拍子に昇進し、ついには副会長へと駆け上がってしまった。

 最初の「ちょっと手伝うだけ」という甘い言葉にまんまと人生が流された形である。

 その後、恐らく昭和五十一年頃だと思うが、世田谷民商だけでは会員を支えきれないとなり、担当三役会議で決議したところ、『世田谷民商を分割し、玉川民商と北沢民商を独立させる』ことが決定した。担当三役という北沢ブロックの副会長、世田谷ブロックの副会長で玉川ブロックの副会長が集まったのだが、玉川には人が全く足りておらず、結局、私は当時の玉川民商会長・三田さん(お米屋さん)を支える形で副会長を引き受けることになった。「二~三年経てば世田谷に戻っていい」と三田さんと約束を元に引き受けた。当時の世田谷民商からは「出張三役」と皮肉とユーモアを含めて呼ばれる役職になっていた。
 玉川民商に役員が増えてもう大丈夫だとなったら世田谷に帰っていいよという話だったのだが、当時も今も当社の納税地は世田谷区税務署だったので、玉川税務署とは会社としてやりとりすることはなかったので避けたがったが、まあ玉川民商に人が増えるまでなら。。と気軽に受けてしまったのである。

 ところが、約束の年月が過ぎても人手は増えず、私は世田谷民商に戻れない日々が続いたのであった。

 そんな折、玉川民商に一人のインテリな若者が履歴書を送って来た。

「大学卒の若者が民商で働きたいと?」

 当時の事務局長は、「とても優秀そうだから採用しよう」と強く推していた。
 しかし、こちとら中学もろくにでていない叩き上げである。早稲田だかどこだか知らないが大学卒の青二才に並み居る父ちゃん母ちゃんの町企業を救えるだけの根性があるわけない。業者の勘定も知らないだろうし、社会的な経験もないだろうから「たぶん無理だろうね」と履歴書を見て私も筆頭に出張三役が決めつけた。しかしどうしても使ってほしいと事務局長が言うもんだから、

「まあ、事務局長がそこまで言うならいいだろ」
と、しぶしぶ採用を許可したのだ。

 面接の席で初めてこの青年を見た時は──なんだかひょろっとして如何にも勉強だけは出来そうだが、商売をしている会員さんの罵声で吹っ飛んでいってしまうような頼りなさげに見えた。そこで私は端から見下して言った。
「君ねえ、大学出のボンボンが扱えるほど、うちの会員さんは優しくないよ」

「ぜひお願いします。町の中小企業を救いたいんです」
 細身の青年、名は海老名正一といった。彼は私の細い眼をしっかりと睨みつけそう語った。その熱意に蹴落とされたのか、まあ、使えなかったら高学歴なら他所へ行っても働けるだろうし、もし残るのだったら書類仕事だけさせればいいや、という気楽な考えもあって彼の採用を決めたのであった。

 最初こそ戸惑っていたものの、海老名は採用後、三役全員が驚くほどよく働き、地道に足を使いながら地域の父ちゃん母ちゃんの小企業までくまなく一軒一軒回り、我々でも手をこまねいていた頑固爺が一人で経営するお店まで懐柔し、どんどん会員を増やすなど驚きの働きをするのであった。

 さて、玉川民商が独り立ちしてから、3年ほど経った頃だっただろうか。初代玉川民商の会長を勤めていた三田さんが、ついに引退を決めたという知らせが飛び込んできた。その日、民商の会議室はまるで鯉がいきなり水面を跳ねたような、そんな不穏な雰囲気に包まれていた。

「誰に次の会長をやってもらったらいいんだろう?」

会議室はざわざわとした空気であった。私は任命されてはたまらないとばかり窓の外を見ていたが、会議室のほぼ全員が私を見ていたことはどうしても気が付かないわけにはいかない。

 苦渋の表情を浮かべ引退の申し送りをした三田さんの表情には『尾上君、二~三年で帰っていいよ』と言った約束を、すっかり忘れている様子だった。加えて二人で交わしたその約束を、周りの連中は誰ひとり知っているはずもなく、私が『やります』というのを待っている期待感に満ちた顔で私を見ていた。

「ちょっと待ってください、勘弁してーっ!」

 と口ばしろうと思ったが、場の空気が一瞬で私の口を止めさせ、パクパクするだけになった。

 三田さんはさも当然かのように私を名指ししてこう言った。

 「尾上さん、じゃあ大変だと思いますが、後はよろしくお願いします」

 会議室内に「おぉ~(これで安心だ)」という安堵の声が響いた。

 その雰囲気に、私は『あ、これ逃げられないやつだ』と感じ、自分の人生が風になびいて流されていく様を感じた。

 その時の気持ちを今でも言葉で表すのは難しい。具体的に頼まれたわけでもなく、前触れもなく、まるで街角でビラ配りしていたら、「君、これから会長だよ!」と急に呼び止められたような気分だった。

 でも、やりたくないわけじゃない、と思う自分もいた。むしろ、妙にその役目に身を任せてしまう自分がいることに気づく。自分でも不思議だった。会議の最中、どこからともなく湧き上がる「会長、次はこれどうします?」という声が、私の耳に届く度に、その度に心の中で冷や汗が流れたが、同時に何か燃えるものもあった。

 最初に民商に入ったときも「名前貸しだけ」という甘い言葉から始まったわけだが、今度は「二~三年だけだから」という言葉を信じたことで人生の舵が大きく切られてしまった。
 それにしても、どこの民商も会長を決めるときはこんなんなんだろうか。

 その後、私は自分の住んでいるエリアでもないのに、この後、週のほぼ半分は玉川民商と、そして玉川税務署に入り浸ることになった。工場のあった喜多見から玉川民商が当時事務所としていた等々力まで通うその足取りは、まるで勝手に決められた運命に流されていく、何ともおかしな感じだった。
 午前は自分の仕事として尾城製作所の社長業、部下に仕事の指示を出した後は車に飛び乗って玉川民商ある等々力まで。で、民商の仕事が終わり次第、二子玉川に戻って少しパチンコ、呼ばれれば麻雀、と全く人生の中でもかなり上位に匹敵するほど忙しい時期だった。

え?パチンコと麻雀は不要じゃないかって?まあまあ、そこは昭和の男ってことで許してちょんまげ。

 こうして、玉川民商の会長をやって、二十年以上の歳月が過ぎてしまった。

 私は体力の限界を感じて辞意を表明するまで、私は玉川民商の長年の顔として、町の中小企業を支え続けてきた。
 いよいよもって引退するときに、かつて「使えなかったらすぐに追い出せばいい」と半ば馬鹿にしていた青年海老名を中年海老名になるまでこき使っていた。

 そして、この長い民商の会長時代の間、自分の右腕としてなくてはならない存在になっていたんだから、世田谷民商に帰りたいなあと思っていた時には全く想像もつかなかったことである。

 当時、民商には婦人部も存在し、女房のまさ子はそこの理事も担当していた。まさ子は海老名から私の愚痴を多く聞かされていたようで、海老名に同情したまさ子は私のこずかいを減らす形でうまく資金を捻出し、有志のカンパということで玉川民商を裏で支えていたと聞いたのはもう少し経ってからの話である。

 世田谷民商から玉川民商へ、そして、その歴史を共に紡いできた仲間たち。私はただの経営者ではなく、世田谷に集う商いを営む者たちを守る役として、時代の波を越えてきたのだ。

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