第十六話 銀紙と家族とオリンピック
「ちょっと今日は体調が悪いから、仕事休ませて」
昭和38年、秋も深まる頃。急に女房のまさ子が、そう言い出した。
「どうした? 病気か?」
「たぶん、病気じゃないと思う。今日、病院に行ってくるわ」
「病気じゃないのに、なんで病院に行くんだ?」
「まあ、いいじゃない」
「病気じゃないのに、無駄に医者なんか行くんじゃない。家で寝てろ」
そうだけ言い捨てて、私はイライラしながら仕事に出かけたのだった。

現代の情報に慣れた読者なら、このやりとりだけで何のことか察しがつくだろう。
しかし私は、昭和の男だ。まったく女というやつは、ときどき意味のわからないことを言うやつだと、不条理な会話にただただ腹立だしかった。
私は、本当に何もわかっていなかった。いや、わかろうともしなかった。それが、昭和の男というものである。
──そして、私が二十九歳、まさ子が二十七歳のとき。私たちに、初めての子どもができたのである。
私たちはこれを機に、三軒茶屋の四畳半アパートを出て、少し広めの部屋へと引っ越すことにした。
向かった先は、上馬にあったお茶屋さんが経営するアパート(今はもうない)。
この部屋を選んだ最大の理由は、室内に流しがあるという点だった。三軒茶屋のアパートには、なんと流しすらなかったのである。
そしてこの年──
言うまでもなく、東京で初の夏季オリンピックが開催された年でもあった。
工場のある野沢のすぐ近く、駒沢には陸上競技をはじめ、サッカーやレスリング、バレーボールなどの会場が整備されていった。
オリンピックを前に、ダンプカーがひっきりなしに走り回り、道路は急ピッチで整備され、ついには、東京の大動脈である環状七号線が世田谷と目黒を貫通したのもこの頃だった。
昼休みには、城戸と河上を外に連れ出し、開通前の環状七号線の上で、キャッチボールをして息抜きするのがちょっとした楽しみだった。
尾城製作所も、世間の好景気に引っ張られるように、次々と仕事が舞い込んできた。
作業は城戸と河上、それに女房のまさ子に任せる一方で、私は兄・栄一や、その女房である義姉・静江姉さんにも手伝ってもらいながら、製品をひたすら作り続けていた。
同時に、営業としてお得意先を回る傍ら、よくお客さんや仲間と麻雀にも興じていた。
当時は、相手が満足するまで三十六時間ぶっ通しで麻雀を打つことも、さして珍しくはなかったのである。
その日は女房が臨月であるにもかかわらず、私は悪友と麻雀に出かけていた。女房を病院まで運んだのは、同じアパートに住む隣人だった。私が子供の誕生を知ったのは、麻雀で徹夜して帰った朝のことだった。
「おい! あんたの奥さん、昨晩に赤ん坊を産んだぞ!」
隣人の声に、私はびっくりした。
「はぇ? もう生まれたのか?」
私は慌てて病院に駆けつけ、無事に生まれた赤ん坊を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
まさ子は上馬のアパートの流し台で食事を作りながら、食器と一緒に息子のおむつを洗っていた。もちろん私は仕事をこなすのが大黒柱の役割だと信じているので、家事や子供の世話など一切をまさ子に任せていた。
今ではいろいろと言われるだろうが、昭和の男っていうのはこういうもんなのである。
昭和42年、ようやく事業も軌道にのり、やはり実家の土間では手狭になり、大きなプレス機も入るような新たな工場の建設を考えていた。候補になったのは生まれ育ったこの世田谷と、多摩川を越えた川崎・横浜地区である。
いつくかの候補地を見て回り、やはり値段の安さから川崎の重工業エリアが工場認可も下りやすいし、何しろ勢いがあった。しかし私には何かひっかかるものがあった。
その言葉は『都落ち』である。
たった多摩川ひとつ超えただけで距離的にも大して変わらないが、世田谷を出るのが本当にいいのだろうかと真剣に悩んだ。
3歳になったばかりの息子をまさ子方の母に面倒を任せ、まさ子と共に様々な物件探しを行い、写真でも撮りに行こうと二子玉川駅の近くの兵庫島公園(当時はただの河原だった)に降り立ち、川に石を投げながら相談した。
「おれは出来れば世田谷から離れたくない。世田谷を離れると、何となく負けたように思われそうで…それが癪なんだ」
物件探しに付き合ってくれたまさ子も
「どうせ私が何言ったって聞かないでしょ?好きにすれば?」
まさ子はいつも私の決断をこう言って背中を押してくれる。
(あれ?今、文字にしてみて初めて気づいたが、まさ子は俺に対して言い応えをしなかっただけ?もしかして背中は押してないかもしれない!?)
私たちは、当時緑伸会の友人が紹介してくれた二子玉川から若干多摩川を上った先にある『喜多見』という土地を見に行ったのだが、そこは多摩川の砂利地と畑、それに手つかずの草地が広がっていた。
砧浄水場があるためトラックなどは入れるが舗装もされていないため、周囲は水たまりだらけだった。正直川向こうの川崎重工業地帯の方が舗装もしっかりされ土地の値段も安かった。
しかし、私はまさ子にこう伝えた。
「おれはこの土地で勝負したい」
こう情熱に燃える私の格好つけた宣言に、まさ子は呆れた顔でまたしても、
「どうぞお好きに」
と言ってくれた。
(やっぱり、いま気が付いたが、放任されただけではないか!)
なお、本心としては「東京で工場を立ち上げる!」世田谷で産業の立ち上げ箔をつけるんだ!と豪語していた私だが――、実は、あの喜多見の土地は多摩川の河原に程近くて、
「ここなら釣りにもいいかもしれないな」と、邪な思いを抱いていたのはまさ子には秘密である。
今だから正直に言うと、気持ちは川向こうの川崎で土地を取得し、工場を建てることを真剣に考えていた。工業地帯として整っていて、地盤も良く、値段も安い。条件だけ見れば、誰だって川崎を選ぶだろう。
でも私は、「東京でやる」という意地に取り憑かれていた。
馬鹿げているかもしれないが、東京で工場を立ち上げたという事実に、何かしらの価値を感じていたのだ。
尾城製作所の社長ではあったが、当時はまだ三十歳そこそこの青二才。事業は好調とはいえ、自己資本などほとんどなかった。そのため、早速資金を調達するために地元の大手銀行に行くことにした。
「俺は社長だし、金を貸すのが銀行の仕事だろ。俺みたいな有望な若者には、喜んで貸すに決まってる」
と、たかを括っていた。
そんな気軽な気持ちで銀行に融資を申し込んだ私を現実の厳しさが襲い掛かったのだ。返ってきたのはどれも冷たい反応ばかりだったのだ。
「喜多見ですか?……正直、あのあたりでは担保評価が難しいですね」
「もう少し実績のある立地でお願いできませんか?」
「尾城製作所さんの実績では、ちょっと……どなたか信頼のおける保証人を付けられませんか。いや、あなたではちょっと・・・」
「将来性に不安があると、融資課では判断しました」
――意地と夢じゃ、金は借りられない。まるで『お前には未来がない』と突きつけられたような気になってしまった。
いくつもの銀行に断られていた頃、たまたま紹介され扉を叩いたのが、地元の信用金庫――同栄信用金庫だった。世田谷や喜多見といった城西地域を拠点とする地場の金融機関だ。
初めて支店を訪ねた日のことは、今でも忘れない。
私は多くの銀行にほとんど門税払い同然に話をさせてもらえなかったので、どうせここでも同じだろう。でもちょっとでも貸してくれれば来月の支払いに使えるな。などと考えて、尾城製作所の事業について説明を行った。
話をじっくり聞いてくれたのは私よりはるかに年上の支店長だったのだが、私の話を一通り聞いた後、ゆっくりとこう言った。
「場所でも数字でもなく、“人”を見るのが私たちのやり方です。あなたが喜多見というこの土地で、どうしても工場をやるというのなら――私たちは応援しましょう」
散々人生への批判を繰り返された私にはその一言が、胸に染みた。数々の銀行に見放されたあとだったからこそ、初めて“自分という人間”を見てくれた気がしたのだ。
もちろん、すぐに満額の融資が下りたわけではない。
何度も通い、計画書を直し、根掘り葉掘り聞かれ、それでもようやく、最初の一歩を踏み出せるだけの額を引き出してもらえた。
でも、あのときの「あなたを信じますよ」という言葉は、のちにさわやか信用金庫と名前が変わった今でも、私にとっては唯一の“背中を押してくれた銀行”として、ずっと大切にしている。
そんな紆余曲折を経て、私は世田谷区喜多見の地に土地を購入することができた。
次に考えなくてはいけないのは、そこに建てる工場だった。私はひとつ工場を建てるときには決めていたことがあった。
緑伸会の帰り道、私は親友の山本を呼び止めた。
「やま(私は山本をこう呼んだ)、喜多見に土地を買ったぞ。ここに工場を建てるって決めたんだ」
「すげえな、お前は……俺も早く見習い大工から出世しねえとだな」
「ばか、何言ってんだよ、棟梁」
「え?」
「お前が俺の工場の棟梁をやるんだよ」
「……えっ、おれが?」
山本は冗談だろと言いたげな目で私を見たが、私は真剣なまなざしでうなずいた。
しばらく沈黙のあと、山本はぽつりとつぶやいた。
「……ありがとな、よっちゃん」
当時、まだ見習いだった山本は明らかに戸惑っていたが、私の意志は固かった。
親友の山本に、この工場を“初めての棟梁の仕事”として託す。それが、私の願いだった。
もちろん、新米の棟梁なので工賃は格安で出来るだろうという目論見があったことも嘘ではない。山本は苦虫を潰したような顔をして悩んだが最終的には快く請け負ってくれた。
思えば、山本に何か頼むときはいつもこの顔をしていたように思う。ただ私は山本は決して首は横に振る男じゃないと知っていた。いや、もし首を横に振ったら、縦に振るまで説得するつもりだった。
皆若さに溢れており、少しくらいの問題は後でなんとかなるだろうとたかをくくっていた。もう勢いだけで物事を決められる。まさに未来は明るいというのはこういうことなのだ。
ただ、私は単に勢いだけでここまで来たのではないことを、山本からしみじみ教えられた。
「お前は幸せ者だな、お前の周りには何時も助けてくれる人がいる」
そう、私はここまで来るのに本当に多くの友の力を借りてきたのだ。
そんな折り、また新たな問題を山本が見つけてきた。
「よっちゃんよ、喜多見って住居専用地指定だから土地の3割にしか建物を建てられないってよ」
「なんだって?」
当時、50坪ほどの土地を買っていたが、それだと20坪もない建物しか建てられない。――つまり、広々とした工場なんて到底建てられないということだった。
工場として活動するにはその倍の面積の建物が必要だった。
若さだけではどうにもならない問題に私は頭を抱えた。
「やま、わかった。いいからこのまま工事を続けてくれ。俺が何とかする」
私はしばらく考えた後、私は上馬のアパートを出て、家族そろって喜多見のまだ出来上がっていない家に引っ越してきた。
当時も今も住民がそこにいる場合は行政といえども容易には追い出しはできないのだ。
しかし、役人は何度も家にやってきた。
「申請した図面と違うんですが・・・」
と我々を違法建築業者とでも決めつけたかのように圧力をかけてきたが、
「はあ、家族が住むためには広い家じゃないと、私は寝るところがありません。お役所の皆さんは私を外で寝ろっておっしゃるのでしょうか?」
しぶしぶ、お役所が帰ったあとに、私は山本の顔をちらりとみて片目をつぶって挨拶をした。
しかし私の眼はもともと細いので山本は全くその合図に気が付かなかったのだが。まあそれはしょうがないだろう。
喜多見の工場を建設中、できあがった新築の住居部分でほそぼそと生活を始めていた私たち家族だったが、それから1年ほどかけて木造の工場を作り上げた。
結局、この家は山本が棟梁として作り上げ、自信を持ち、独り立ちするきっかけになる物件にもなった。
完成したその日、二人は笑いながら握手を交わした。
そういえば、この建築中の工場で機械や資材などの整理をして忙しくしている最中である。またもやまさ子が急にこう言いだした。
「ごめんなさい。ちょっと気持ちが悪いので、部屋で寝てていい?」
「なんだと? 道に落ちてたものでも拾って食ったのか?」
「食べてないわよ! それと、私は工場の荷物整理など一切できないけど、いいかしら?」
「なんだと? この忙しい時に手伝わないだと? お前は俺の女房である自覚があるのか?」
「だって、お医者様から安静にしてろって言われたの」
「なんだと? なんの病気だ?」
「だから病気じゃないって」
「病気じゃないのに、医者なんかの言うことを聞くんじゃない! 少しは働け!」
──このやりとりはこの章では二度目だが、私にとっては4年前の話だ。覚えているはずもなかろう。
それに私は、昭和の男だ─以下略。

とまあ、なんやかんやあったが、昭和43年4月、無事に次男が誕生したのだった。
やはり臨月の女房を病院まで運んだのは、ほぼ同じ時期に土地を買い、
世田谷区のモータリゼーションの発展に寄与するお隣の土屋オートさんだった。
私はというと──またもや麻雀に夢中で、次男の誕生を知ったのは、翌朝のことだった。
「おい、尾上さんよ!昨晩、次男が産まれたぞ!」
土屋オートさんの声に、私はまたもやびっくりした。
「またかよ……」
私はポリポリと頭を搔きながら病院に駆けつけ、すやすやと眠っている次男を見て安心するのだった。
この時の反省を元に私は当時は麻雀と言えばお客さんの元に行くというのを改め、自身で雀卓を購入し、新しく作った工場の事務所にそれを置き、お客さんを逆に当社に呼んで麻雀をすることにした。これならもし家で子供が産まれそうなときでも安心して女房を病院に運ぶことができる。
ただ、この時は正直お客さんから喜多見に来て麻雀を打つことは問題視されるようになってしまった。長年の杵柄が元で、私も麻雀が強くなってしまい、接待麻雀のつもりが、つい、お客さんのお金を巻き上げてしまっていたのである。また実際の麻雀においても、常に二位狙いーつまり大きな手を狙って博打を打つよりも着実に勝ちを拾い、決して大きなフリコミをしないと徹底したその技が裏目にでてしまったのである。
おかげで尾城製作所の社有車は、喜多見に麻雀を打ちに行くとその資金を肩代わりさせられると評判になってしまう。
さて、余談にはなるが、現在もサンネームと土屋オートの目の前にある砧浄水場だが、浄水場の入口までは水道道路がここから杉並の方まで伸びていたが、地下に埋まっているという鉄の水道管が破裂するという理由で4トン車以上は水道道路を通れなかった(今も一部通行禁止)
土屋オートが修理するトラックが入れるように道路の拡張を区に要望したのは当時の尾城製作所と土屋オートであった。
なお舗装が完全に終わるのにも、まだしばらくは時間がかかった。晴れの日に修理を依頼して、雨の日に納車となると修理する前より泥汚れがひどくなると評判になった。それくらいこのあたりの道は未舗装の穴だらけだった。
さて、工場は出来たものの、まだまだ大きな難題が残っていた。当時、この喜多見は第一種住居地域に指定されていて、板金などの金属の加工プレスが許可されていなかったのだ。そこで、一計を考えた。私は商品で使っている薄い金属膜がついたシートを役所に持っていき、役人に尋ねた。
「これは何に見えますか? うちで加工する材料です」
すると、役所の担当者は
「これは銀紙ですね」
と言ってくれた。間髪入れずに、私は
「そうですよね、金属じゃないですよね」
こう、ごり押しして、当時の認可担当の役人を納得させた。最終的に、「金属加工」の指定がないことで、第一種住居地域においてもプレス機械の設置が可能なように交渉を成立させたのである。
実はこの話には後日談があって、認可の更新が必要な場合が適時あるのだが、役所としては既に尾城製作所が世田谷区の産業として十分な実績のある工場ということから、新規設備も黙認で置いて良い、というようになった。
さらに本当に最近の話だが、近くに国の財団法人の大きな研究所ビルが立ったのだが、ここにこれだけのものを作れるのも、国の研究施設を世田谷区が誘致できたのも、実はこの私、尾上芳明だったと言っても過言ではないだろう。世田谷に事業所を持たせるという意味では、大きく貢献したと自負している。
世田谷に工場を置いた私の目には狂いがなく、東京のあちこちから、さらに川崎や横浜、遠くは相模原の方までどこにでも行きやすいという強みが活きた。結城が勤める印刷工場も拡大のため相模原に工場を移したが、世田谷通りから相模原までつながっている津久井道を通れば容易に行き来することが可能だった。そして私の本拠地である桜新町や三軒茶屋などにも時間をかけずに行くことができた。
さて、喜多見の地で事業を拡大し始めて6年後の昭和49年1月に待望の女の子が誕生した。
しかし、私はもはや長女の誕生した日のことを覚えていない。いや、本当に記憶にない。全く覚えていない。
「おい、!今度は長女だぞ!」
誰かの声に、私はびっくりする自分がいた。
「え?またかよ……」
と、まあ、こういう夢を見たのだけははっきり覚えている。
しかし、長女の誕生を聞いた瞬間のことを全く記憶にないのだがどうしよう。
「まあ、いいか」
私はそうつぶやき、長女を抱き上げた。
と思う・・・(自信はありません・・・だって本当に覚えてないんだからしょうがない)

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