第十五話 会社を支える大きな螺子
「尾上、おちついて聞いてくれ。今朝がたなんだがな・・・・おやじさんが亡くなった」
──独立してしばらく後、ムサシ電機の社長であるおやじさんが亡くなったとの菊池工場長からの突然の訃報を受けたのだった。
「え?おやじさんが?」
独立してからというもの、てんてこ舞いで、ムサシ電機のおやじさんに教わった「麻雀」や「川釣り」もろくに楽しめていなかった私に届いた訃報だった。
私は呆然としながら喪服を探し、着替えながら考えた。──おやじさんに会いに行く、その約束を破る日に、まさか喪服を着てまたあの工場に向かうことになるとは。
もう二度と、あの笑顔を見られないのか。まさか、そんなはずはない。
そう思うと、どうしても現実を受け入れられず、心の底から信じたくない気持ちに包まれた。
ぎこちない喪服姿で駆け付けた葬儀場には、おやじさんの名前が書かれた案内板が出ていた。
それを目にした瞬間、急に現実が襲いかかってきた。
ムサシ電機時代に世話になった顔なじみの取引先に軽く会釈をしながら進むと、菊池さんと目が合った。
ふっと視線をそらした菊池さんが、無言で祭壇へと促す。
その中央に飾られていたのは、おやじさんの遺影だった。

工場でいつも見せていた険しい職人の顔ではなく、どこか柔らかく、穏やかな表情。
その写真を見た瞬間、胸の奥から込み上げるものを抑えきれず、私はそっと目を閉じた。
私が入社して間もない頃、プレス機を支えるボルトをダメにしてしまい機械が動かなくなってしまった時、おやじさんが颯爽と直した姿がふいによみがえる。
ただオロオロしていた私の前に、おやじさんが腕をまくりながら現れた。
「おいおい、ボルトのトルクは腕に覚えこませなくちゃいけねえ。力いっぱいに回せばいいってもんじゃねえよ」
おやじさんは私に工具箱を持ってこさせた。おやじさんの後ろに立った私は、汗をぬぐう暇もなく、指示されるままに名前もまだ知らなかった道具をひとつひとつ教えてもらいながら直していく様を見た。
その間、おやじさんは一言も怒鳴らなかった。ただ静かに、折れたボルトの上から細いドリルでさっとを穴を空けたかと思うと、溜まっていたボルトのカスを取り除き、新しいボルトにさっと取り替えてスパナでぎゅっと締め直す。それは、まるで外科医が患者の容態を確認しながら手術するような見事な手さばきだった。
「よし、回してみろ」
おやじさんはそういうと、私は恐る恐るスイッチを入れた。
プレス機は低くうなりながら、再び命を吹き返した。
「ほらな。機械も、人間と同じだ。ちゃんと直し方があるってもんだ。こうして直してやれば、この子もまだまだ働いてくれるさ」
そう言って微笑むおやじさんを見ることは、もうできない。
「それでは皆様、最後のお別れです」
ふっと、現実に引き戻された私は棺のおやじさんに一目散に駆け寄った。
「おい、挨拶に来る暇があったら仕事しろ」
今にもそう言いそうな、おやじさんが目をつむったままピクリとも動かなかった。あのごつごつした傷だらけの手で背中をたたかれる日は、もう二度と戻らないのだと思うと、胸が締め付けられた。
おやじさんに教えてもらったのは、仕事だけじゃない。麻雀も教えてもらったし、川釣りにも連れていってもらった。
川べりに腰を下ろし、餌の付け方から投げ方まで、ひとつひとつ手ほどきしてくれた。
「焦るな。釣りってのはな、待つもんだ。機械も魚も、せっついたって動かねえ」
そう言いながら、おやじさんは煙草をくわえ、流れる川面をじっと眺めていた。
麻雀だってそうだ。
「勝ったからって、でかい顔すんなよ、がはは」
「仕事も、麻雀も一緒だ。とにかく楽しまなければ損だろ。負けても失敗しても笑え」
おやじさんはそう会話をしながら、私に工場とはなんぞや。機械とはなんぞやという極意を包み隠さず話してくれた。
それらは全て今の自分の一部となって刻まれている。
おやじさんは私にとって、ただの雇い主ではない。プレス機の扱いを教えてくれた師であり、川釣りで、自然に耳を澄ますことの美しさを示してくれた友人であり、麻雀で、勝負の流儀を教えてくれたライバルだった。
そして、人生をどう生きるかを、背中で示してくれたのだった。
私の中に、ふいに、耐えがたいほどの喪失感が押し寄せた。まるで、心のどこかで支えていた柱が、音もなく崩れ落ちたように。
葬式の出棺の際、会社はおやじさんの娘さんが後を継ぐという話を聞かされた。
彼女はまだ若く、経験も浅かったが、父の遺志を引き継ごうと必死だった。葬儀の別れ際、彼女は涙を溜めながら
「父の会社を守ります」
と小さな声で誓い、私たちに頭をさげた。
その姿から、あの日、おやじさんが黙って背中を押してくれたときの覚悟が、ふっと重なった。言葉にできない思いが、胸に灯る。おやじさんが生前に見せていた経営者としての覚悟と重なり、私はそっと拳を握りしめた。
やがて彼女は彼女の夫と共に工場再建に向けて、二人で懸命に事業を続けていこうとしていくのである。
しかし、そんな人の想いを運命は残酷な形で奪い取るのだった。
娘の夫も、突然の病で亡くなってしまったのだ。私はその訃報を聞いたときに完全に言葉を失った。工場は再び喪に服し、灯りが消えた。
私はその時、事業を続けることの難しさを痛感した。
『工場を守る』ということは、ただ技術を磨くだけでは足りない。仕上工になって独立したくらいで一人前だと勘違いしていた自分を恥じた。
経営の厳しさ、人の命の儚さ、そして時代の流れに抗うことの難しさ――私はそのことまでもおやじさんから学んだのだ。
ムサシ電機の工場はおやじさんという螺子が抜けて、動けなくなった。かつて、自分は大事な螺子になろうと心に決めていたが、その螺子がなくなっては会社は存続できないのを改めて痛感したのである。どんな螺子が抜けても動き続けられる組織でなければならない。それが会社だ。
「今の俺では、まだまだ何もかもが足りない」
私は心の中でつぶやいた。私はプレス機の音を聞きながら、自分がまだまだ未熟であることに悔しさを覚えた。
今日も素晴らしい未来に向けて何かを作る音があちらこちらから響いていた。しかし、私の心の中には、深い影が落ちていた。私はその影と向き合いながら、自らに問いかけた。
「俺は……何ができるんだ?」

私を育て、成長させてくれたムサシ電機の工場の灯はもうない。こんな風に工場の灯が消えるなどあっていいはずがない。
私が理想とする笑顔が絶えない工場になるよう、無理にでも明るく振舞って今日も仕事を続けなければならないと改めて心に誓うのであった。
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