novel-13

第十三話 独立と裏切者

 それは、忘れもしない、昭和三十六年の暮れが迫る頃。現代では様々な娯楽が溢れかえる時期であるが、当時はそんな余裕もイベントもなく、私はただただ、ムサシ電機の現場で黙々と修行を重ね、十年が過ぎていた。

 所帯をもち、二十六歳の私は、ようやく少しだけ大人の顔を見せ始めたと自負していた。

「尾上、おやじさんが話があるってよ」

 工場長の菊池さんが、作業の手を止めて、よく通る声で私を呼び出した。
 油で汚れた手を、首にかけていたボロボロになったタオルで軽く拭いながら、私は小さく頷いた。

 あまりにも突然の出来事だったので、少し不安を感じた。これまでの経験から、あのおやじさんが何かを突然言い出すときは、目に余るミスをしてしまったこと、もしくは、褒めてもらうことのどちらかであったからである。後者であることを祈りながら、工場長に話かけた。

「俺、何かやらかしましたか?」

「さあな、まあ先に社長室に行ってろよ。俺もすぐに行く」

 私は言われた通りに社長室に行って、ノックをして部屋に入った。

「失礼します、尾上です」

 緊張からか、少し声がうわずってしまった。おやじさんは、そんなことなど微塵も気にせず、窓の外を眺めていた。私が入るなり、社長室の応接室──とは言ってもおかみさんの事務室も一緒になった部屋の片隅にあるソファに座るよう目配せをした。

「尾上、お前、ここへ来て何年になる?」

「中学を卒業してすぐですからもう十年目ですね」

「そうか、じゃあ、菊池の狙いより少し遅かったな」

 応接室へ、あくまで自然なタイミングで、菊池工場長が入って来た。

「おう、工場長、それじゃあ、任命してやれ」

 菊池さんは、すでに話の内容を知っていたのだろう。これだけ聞くと「はい」と軽く頷き、

「尾上、お前を今日から旋盤工に任命する。お前うちの工役、これで全部揃ったな。大したもんだ。おめでとう」

「え?それって・・・」

「ああ、そうだ。お前は今日から仕上工だ」

──仕上工。

 それは、他の職人から一目置かれる存在であることを証明するだけでなく、一流の職人であることの証でもあった。

 この頃、私の手がける部品は、どれも完璧に近しい仕上がりものになっていた。朝から作った部品は、最初の一個から問題がなく、菊池工場長からは「よし」としか言われていない。
 旋盤はムサシ電機でも一番難しい加工技術だ。
 ほんのちょっとの調整ミスで寸法が狂えば、もう製品としては使い物にならない。

 私はそれだけでなく、工場内、どの機械の音を聞いても、その調子がわかるように把握できるようになっていた。

 おやじさんは、菊池さんの言葉を待って、ゆっくりと口を開いた。

 「尾上、お前はもう一人前だな」

 十年間、手際も悪かっただろう自分を諦めずに見守ってくれたおやじさんがそう言うと、私は感無量になってしまった。

 「あ、ありがとうございます!これからもがんばります!」

 私の細い眼の奥には、十年前、何をやっても上手くできなかったあの自分が浮かんでいた。

 ──俺もやっと、大事な「螺子」になれた。これから工場を支えていく存在にならないと。

 そんな風に思いながら、胸の奥で何かが熱くなるのを感じながら自分の持ち場に戻った。
 今日は少し贅沢して、まさ子と焼肉でも囲もう。酒は飲めないけど、お茶で乾杯だ。

 その日の定時後、私は早くまさ子にこのことを伝えたいと早歩きで、戦後の復興から高度成長期に向かってひた走る工業地帯を抜けて行った。
 働けば働くほど、未来が明るくなるのを、私は肌で感じていたのだ。

 それからの私は、ムサシ電機の主力技術者として、多くの製品の責任を負い、その後も、ムサシ電機の主力技術者として、幾多の製品を作り続けていくことになった。

 ──そんな折である、とある話が舞い込んできた。

 昭和三十七年の九月。
 まさ子と結婚して二年、仕上工としてもうすぐ一年を迎えようとしていた頃だった。私は二十八歳になっていた。

 その日も、仕事を終えて帰ろうとしたときに、結城からムサシ電機に電話が掛かってきた。

「尾上、今日はちょっと真面目な話があるので、野沢で会わないか?」

 私は、まさ子の待つ三軒茶屋のアパートではなく、実家の野沢に寄ると、そこにはもう結城が待っていた。挨拶する間もなく彼は言った。

「お前のところで、うちの会社のプレス加工を、一気に請け負ってくれないか?」

「え?」

 その言葉に、私は思わず息を止めた。

 結城の会社は都内でも有名な印刷会社で、あらゆる素材に印刷する技術で名を馳せていたが、その分、対応するプレス加工が煩雑で、内製では限界が来ていた。小口で分散していた加工先を、集約したい──それが今回の話だった。

 結城の会社の技術者たちはコストと手間が見合わず、頭を悩ませ行き詰まっていたのだ。

 私は、勤めていたムサシ電機でプレス機の調整を特に得意としていた。素材ごとに最適な抜き方を見極め、求められるコストで仕上げる自信があった。それはまさに私にとってうってつけの仕事だったのだ。

「お前が一括して請け負ってくれるなら、かなり大きな仕事を優先的に回せると思うのだがどうだろうか?」

 しかし、私はまだ雇われの身である。友人の頼みとはいえ、他の仕事を差し置いて結城の案件を優先するわけにはいかなかった。

 結城の会社の仕事を丸ごと受けるなら、私の技術を存分に活かせる。だが、私は会社に育ててもらった身だ。勝手なことは許されない。もし独立でもしようものなら、恩を仇で返すようなものではないか。

 迷いは尽きなかった。

 それでも、ムサシ電機の現場でプレス機を踏むたびに私の思いは揺れた。

 目の前のプレス機械は、もはや私にとって手足のような存在になっていた。音を聞けば調子がわかり、感覚だけで微細な調整ができる。だが、このままずっと雇われのままでいいのか。

 この自らの手で工場を動かしたい──そんな熱い思いが日に日に強くなっていった。

 結城からのこの依頼は、私の向上心に火をつけた。機械を支える一本の螺子から、私はプレス機械そのものに成長してみたい。親友である結城の期待に応えたい。

 そして、こんなチャンスは二度と来ないかもしれない。

「まさ子、俺は独立して、結城の会社の仕事を一気に引き受けたい」

「え?だって仕上工にまでなったんでしょ?面倒を見てくれたムサシ電機はどうするの?」

「もちろん辞めるしかない」

 私は世話になったムサシ電機の社長であるおやじさんに何としてでも許してもらい、独立することに決めたのだ。もう、私の気持ちは変わらないものとなった。

 やっと仕上工まで育ててもらい、これから会社に恩返しをしていくはずだった。それなのに、独立を願い出るのだ。怒られるに決まっている。

 私は殴られても土下座してでもお願いしようと覚悟を決めておやじさんに会いにいった。

「すいません、おやじさん。勝手なのは百も承知です。でも、友人のために力になりたいんです。辞めさせてください」

 私は深々と頭を下げた。どんな罵声も受ける覚悟をしていたが、おやじさんは静かにこう言った。

「何も謝ることはねえ。しっかりと友人の右腕となってやれ。これからは大変だと思うが、しっかりやるんだぞ」

 その穏やかな声に胸が詰まった。隣にいて黙って聞いていた菊池工場長も穏やかな口調で言った。

「おめでとう。お前は俺が育てた仕上工だ。お前ならどこへ行ったって恥ずかしい仕事はしない。俺が保障してやる。困ったらいつでも相談に来な」

 私は今にも泣きだしたくなるのをぐっと堪え、唇を噛み締めて、お二人に深々と頭を下げた。

「ありがとうございます!おやじさん!工場長!」

 おやじさんはおかみさんの方を向き、顎をぐいっとあげて指示した。

 おかみさんは事務所の机から封筒を取り出しておやじさんに渡し、おやじさんは自分の財布からお札を数枚取り出したと思うと、封筒に入れ私に突き出した。

「少ないかもしれないが俺からの餞別だ。奥さんにしっかり旨いもんでも食わしてやれ」

 それを聞いて、私は—こらえていたものが堰を切ったように溢れてしまった。

「おやじさん、ご指導いただいたご恩は一生忘れません。これからも挨拶に来ますので、どうか会わせてください」

 精一杯の感謝を伝えようとした。けれど、どれだけ言葉を尽くしても足りない。むしろ、伝えたかった想いは喉の奥に詰まったままだった。

 おやじさんはにっこり笑い、静かに言った。

「挨拶になんて来るんじゃねえ。そんな時間があったら仕事をするんだ。それよりお前に言っておくことがある。従業員は大事にするんだぞ。それとな、みんなに目が届くように、大人数にして管理職がいるような会社にするんじゃない。ひとりひとりと話ができる範囲で地道にやれ。みんなの”人生”の責任を持つんだ。決して楽な道のりじゃないぞ」

 私はその言葉を胸に刻みながら、おやじさんと向かい合った。差し出された右手は、太く傷だらけで、まさに職人の手だ。

 私は自分の右手をちらりと見たが、自分の手はまだまだ未熟だというのを実感した。私は手についた油をつなぎの裾で軽く拭き、突き出されたおやじさんの手をぐっと握り返した。

「頑張れよ、尾上」

「はい!おやじさん!」

 その返事は工場中に響いた。私はもう一度おかみさんと工場長にも深々と頭を下げ、応接室を出た。勿論、共に働いた仲間、そして、十二年お世話になった工場へ向かって深々と一礼した。

 しばらくして顔を上げた私はそのまま背を向け、駆け出した。

「おやじさん、言われたことは必ず守り抜いてがんばります。でも来なくていいという約束だけは破らせてもらいます。おやじさんに負けないくらい立派な経営者になって、必ず会いに来ます。どうかお元気で」

 心のなかで呟いた。

 女房のまさ子が待つ三軒茶屋まで、私はひたすら走り続けた。おやじさんの職人の手と握手した右手は、おかみさんにもらった餞別をぎゅっと握りしめていた。

 気丈に別れたつもりだったが—気づけば頬には涙が伝っていた。

 私は緑伸会にいた民青(民主青年同盟)の仲間にも、自分の工場を立ち上げることを話した。

 しかし、それは仲間たちの間で大きな波紋を呼んでしまったのだ。

 当時、私を含めた仲間たちは、企業の経営者が労働者を酷使し、使い捨てにする体制に反対していた。その立場からすると、私の独立は“裏切り”と映ったようだった。後から考えればよく分かる話ではあったが、その時の私はそこまで考えられていなかったのだ。

 私はそれまでは仲間だと思っていた友に囲まれて寄ってたかって激しく私を責め立てられた。

「お前、何を考えてるんだ? 俺たちは経営者の搾取に立ち向かってきたはずだ。それなのに、お前はそっち側に加わるつもりなのか?」

 私はその言葉を黙って受け止めた。反論する言葉が見つからなかった。おやじさんに認めていただけたのは、本当に恵まれたことではあったが、それは周りにとって関係のないことだ。

「裏切り者が……!てめえ、最後には金の匂いに釣られて資本家の犬になり下がって!」

 実際に私は経営者たちが金に心を奪われて、資本家という存在になってしまうのを、身をもって知っていた。

「結局、自分だけはしっかり金を貯め、いらなくなったら労働者を使い捨てにすりゃいいって思ってるんだろ!見損なったぜ!金の亡者かお前は!」

 私の周りでは、会社の都合によって、労働者である我々の仲間が仕事先をなくして路頭に迷うのも、実際に見て来たはずだった。

「人間のクズだな。仲間ヅラして近づいて、実は俺たちことを裏で笑ってたのか?」

 民青の仲間はほとんどが地方からの集団就職でやってきた労働者階級の苦労人たちであった。私は世田谷生まれの世田谷育ちであり、実家暮らしで育っていた。彼らからすると恵まれた環境だったのである。

「いいか、もうお前との関係はこれで終わりだ。ここへ二度と顔を出すな。……顔を見るだけで吐き気がする」

 私はムサシ電機のおやじさんと工場長から背中を押してもらったから安心していたこともあり、このかつての仲間たちが私を罵倒する言葉にたじろぎ、じっと耐えるしかなくなっていた。

 確かに、私はこれまで仲間たちと共に、労働者の権利を守るために戦ってきた。経営者の勝手で使い捨てられる労働者を守るため、断固として権力を振りかざして労働者をないがしろにするような極悪非道な資本家を倒すために戦ってきた。

 私には反論する言葉が見つからなかった。

 しかし、私はもう一つの大きな夢に対してどうしてもあがらえなかった。

 自分で何かを作り上げ、誰かの役に立ちたいという夢が。

「俺は裏切者なんかには決してならない」

 心の中で呟いた。

 経営者になることを決意した私は、決して従業員をないがしろにしない。

 民主主義と共産主義の理想を追い求め、誰からも信頼される民主的経営者になろうと心に誓った。

 自分の利益など後回しだ。

 従業員の幸せを第一に考えよう。

 決して従業員の家族を泣かせるようなことがあってはならない。

 従業員一人ひとりの声に耳を傾け、その意見を尊重し、共に成長していく。それがムサシ電機のおやじさんから教えてもらった私の経営哲学であり、これからも変わることのない信念である。

「俺は裏切者じゃない。これからの未来の企業経営の手本となるのだ」

 私の言葉は、ひとり胸の奥に沈んでいった。
 ふと顔を上げると、三軒茶屋の空は夕焼けに染まっていた。
 街の建物は、その光を受けて真っ赤に燃え、その赤はゆっくりと紫へと溶けていく。
 私は立ち止まって、しばらくその空を眺めていた。

「ムサシ電機で教えられた、十人までの仲間で、皆の幸せに責任を持とう。そして、おやじさんのように、いや、おやじさん以上に従業員に愛される会社を作ろう」

 私はまだ何も成し遂げていない。しかし、確かに見えた。沈む陽のその向こうに、私が歩くべき道が、一本の光のように続いていた。

 静かに、大きく息を吸い込む。未来は、きっと、この一歩の先にある。

 私は夕闇へ向かって、力強く踏み出した。

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