novel-11

第十一話 青春の安保闘争

 昭和三十五年一月、私が二十四歳の時のことだった。
 この年――六十年安保と呼ばれた改定騒動が巻き起こった。

 日本がアメリカの傘の下にいる代わりに、自衛の名のもと、戦争に巻き込まれる可能性を受け入れる条約だった。
「守ってもらう」ために、国を差し出すのか。それでは本末転倒ではないか。

 多くの若者が問うたその正義を、大正生まれであり、太平洋戦争を作り出した大人たちは「騒ぎすぎだ」といっていた。
 しかし、私も街のあちこちに反対の声を聞くたびに怒りが渦を巻いた。

「おい、ついに政府がアメリカと安保条約を結んだぞ」

「これじゃ、アメリカの傀儡国家だな」

「革命を起こさなきゃ、また戦争を押しつけられる!」

 我々は当時、時の総理大臣の岸信介が強引に進めていた日米安保条約を本気で恐れていた。
 この国でも革命でも起こさなければ、日本は終わる。何もしなければ、また戦争の日々に引き戻される。
 私たちは本気で、そう信じた。

 同じ昭和三十五年六月。
 私は仲間たちと共に地下鉄の回数券を買い、その切符を握りしめ、国会に向かった。国会議事堂を取り囲み、日米安保条約の改定を強引に推し進める岸信介政権へ、怒りの声を上げたのだ。

 当時、六十年安保の抗議活動は、団結の象徴として、互いに手をつなぎ、道路を埋め尽くすように広がって行進する――それはフランスデモと呼ばれた。
 当時私は民青(民主青年同盟)に労働者として参加し平和的なデモでの解決を目指していて、民青の主張に則り、このフランスデモを推奨していた。

 しかし、警察は容赦はしなかった。平和裏にしていた私たちに容赦なく暴力をふるい、多くの者が怪我をした。
 私もこの警官の殴る蹴るの暴行を受け、怪我を負うこともあった。
 デモのシュプレヒコール(合唱)で声をからし、元々自分ではうまいと思っていた歌声が、この頃から聞くに堪えない方向へ変化してしまっていた。

 当時はデモに参加する全ての人が革命が起きて日本はアメリカの戦略から抜け出し、世界が変わるだろうと信じていた。仲間の中には「日本の革命が行われるまで結婚しない!」と言い切る強者さえいたくらいだ。
 日本としては日米安保から外れ、独立を目指すべきだという主張が主流になりつつあった。特に米国との条約では、日本が一番不利な条約を結ばされていることに疑問の余地はなかった。そんな時代の風潮を空気に乗せ、国会に届くように集まったのが、六十年の安保闘争のデモというわけだ。

 ──しかし、私にはこの頃、別の人には言えない悩み事があった。

 当時、本命の女性を一緒にどこかに行くのを誘うとか、その女性と外で手をつないで歩くなど、恥ずかしくてできなかったということだ。

 そこで私は一計を講じ、当時、気を惹きたくてしょうがなかった沼まさ子に対し、こうアプローチをかけた。

「沼くんは、今の日本政府の安保条約締結についてはどう思うかい?」

 まさ子はしばらく考え込むと、絞り出すようにして真面目な顔で答えた。

「……難しいことはわかりません。けど、また日本が戦争に引きずり込まれるのではないかと、また家を焼かれて、逃げ回る生活に戻るかと思うと怖いです。弟たちを食べさせるだけで精一杯。それなのに国の行く末を勝手に決めて……とても悔しいです。」

 当時の沼まさ子は、両親はろくに働いておらず、そして学校の授業料を払うことさえままならない弟たち三人を、年長者である彼女一人で支えるために懸命に働いていたのだ。
 ウイスキー工場の女工の給料ではとてもじゃないが支えきれない大家族だ。そのため、彼女も自分の行く末に不安を抱いていたのだった。

「確かに、こんな世界のままじゃいけないと思う。沼くんも日本がアメリカの傀儡となってしまったら家族も含めて凄惨な未来がくるかもしれない」

 私は正義感と怒りで、さらにこう彼女に続けた。

「沼くんも国会議事堂に行って、ぼくらがやっているように、声をあげるべきだと思うのだがどうだろう?」

 我々若い世代が何としてでもこの日本を変えなくてはならない。
 私はこう言って、まさ子を何とか連れ出せないかと必死に説得を続けた。そう、私は六十年安保闘争の熱気を、ひそかな個人的な願いにすり替えていたのだ。

「そうですね、私も今のままでは日本は何も変わらないと思います」

「次の日曜日には、俺の会社の同僚と直接国会議事堂に行って抗議しようと考えているんだけど、沼くんも一緒にどうだい?」

「え?私も行っていいんでしょうか?」

「もちろんさ、歓迎するよ」

「わかりました。連れて行ってください」

 やったー!!

 こうして私は、なんとか存在すらしていない同僚をだしに使って沼まさ子を連れ出すのに成功したのだった。
 しかし、読書会のイベントが終わって、解散した後、私は約束は取り付けたものの、肝心の待ち合わせ場所を決めていなかったことに衝撃を受けた。
 あまりの自分の抜けっぷりに、私はしばらく自分の馬鹿さ加減に落ち込んでしまった。
 彼女の連絡先も知らない。どこのウイスキー工場かも知らない。次に会うためには緑伸心会の吉田さん経由で、緑の会の会長さんに連絡を取ってもらい、それからそれから・・・・

「尾上さーん電話ー!」

 工場の稼働中に事務のおかみさんから呼び出しがかかる。私はびっくりしてあやうく機械に手を挟むところであった。

「え?おれに?・・・」

 私は慌てて会社の共通電話の受話器を取った。

「もしもし?どなたでしょうか?」

「あ、尾上さんですか?沼です。お疲れ様です。今お電話大丈夫でしょうか?」

 私の心臓は一瞬で止まりそうになってしまった。いや一秒くらいは止まったと思う。
 私は、彼女──まさ子の声が、電話番しているおかみさんに聞こえたらまずいとばかり、おかみさんに背を向けて、若干猫背になって、声を殺して答えた。

「おぉ、じゃなかった、はいっ、大丈夫でごじぇえます。じゃない、大丈夫です」

「デモは今度の日曜日と聞いてますが、同僚の方とどこで合流したらよいですか?」

「同僚?え?誰?・・・いやいや、こっちの話・・・デモの開催場所ですね。赤坂見附駅って知ってます?あ、地下鉄の出口が何か所かあるんですけど、一番国会寄りの出口で、はい、朝九時に・・・」

 なんとか最初のデー、じゃなかった。最初のデモの待ち合せを約束すると、私は足も軽やかに口元が緩んでしまうのを何とか抑えながら、持ち場のプレス機の前にスキップしながら戻った。

 私は電源の落ちた鉄の塊にそっと頬を寄せ、さっき自分の手を潰そうとしていたこのプレス機に抱きつく。

「まさ子ちゃんに日曜に会える……よしよし、いい子だ、プレス機ちゃん……かわいいなおまえさんは」

 頭をすり寄せ、プレス機のヘッド部分をなでていると、背後に視線を感じた。
 振り向けば、おかみさんが怪訝な顔でこちらを見ていたのである。

……私は何事もなかったかのように、慌てて作業に戻った。

 こんな感じで、連絡し合う手段が会社の電話しかないわけだから、国会前は当然ながら人でごった返しており、現地で待ち合わせも大変だった。
 でも、まさ子に会えるのなら一時間でも二時間でも待つのも苦にはならなかっただろうし、もし会えなくても責める気など毛頭なかった。
 必ず会えるとも限らなかったので、初めて待ち合わせした日に、人込みからあの大きな瞳が現れて、自分と目が合ってにこっと笑いかけられたときには心の底からときめいてしまったのである。

「はあ、はあ、尾上さん、ごめんなさい、遅れちゃって。待ちましたか?」

「いえ、全く待ってないですよ。俺も今来たところです」(本当は一時間以上前に着いていたが内緒である)

「あれ?尾上さんの会社の人は?」

「え?会社の人?」

「えぇ、今日一緒に来るって言ってましたよね?」

「お、え、あぁ、ちょっと都合が悪くなったとかで、これなくなってしまってね」(本当はそんな奴はいないのだが、すっかり忘れていた)

「そうですか、二人っきりですか?なんかこれじゃあ・・・デ、デートみたいですね」

「デ、デ、デー、とぅ?って、そんなわけないじゃないですかぁ、あは、あは、あはははは」

 私は完全に別の目的がありありだったが、彼女もまんざらではなかったようだ。

 二人は赤坂見附の駅から、鉢巻を巻き、国会に向かって歩き出した。

「じゃあ、今日は頑張ろうな」

 私がそう言うと、まさ子もうなずいた。今思うと、一体何を頑張るつもりだったのか、自分でもよくわからなくなる。

 抗議はちゃんとした。今、抗議をしなければ、我々若い世代は国に使い捨てにされてそれで未来は全部終わりだからだ。

 そして、その団結を示すため、近くの人と手をつなぎ合いはじめた。その術つながりは道路いっぱいに広がり国会前を行進するフランスデモの始まりの合図だ。

 私はその勝機を見失わなかった。

「沼くん、さあっ!」

 私は細い目を大きく見開いたかと思うと、思いっきりまさ子に向かって左手を突き出した。
 まさ子は、一瞬ためらったかのように見えたが、軽く頷くと私の左手を右手で握り返したのである。
 初めて握ったまさ子の手、小さくもしっかりとした家族を支える手であった。しかもとてもかわいい。やわらかい。暖かい。あぁずーっとこのまま握っていたい。。。

 私は下心のことなどすっかり忘れ、その手をぎゅっと握り返すと、反対の右手は知らないおっさんの手を握っていることなど完全に脳内から消し去って、左手で握っているまさ子の右手の感触に全集中した。

 やがて抗議が終わると自然と手をつないだ輪が解けて行った。私はさっさと右手に握ったおっさんの手を素早く外すと、その右手をズボンのすそで軽くこすり汚れを落とすと、まさ子の手を思いっきり握りしめていた左手の方向に向きを変えた。

 私が惚れたきっかけとなった、あの大きな瞳でまさ子は少し不思議そうな顔で私を上目づかいでのぞき返していた。

 人でごった返す中、日本の中枢の国会議事堂前の道路の中央。

 私の細い目とまさ子の大きな瞳は確かに見つめ合っていた。そしてこの瞬間、私の胸に温かい感情がどっと広がった。

 ──この女を守りたい。

 私たちは、はっと我に返り、握り合っていた手と手をパッと離したかと思うと、背中同士で反対側を向くと、まさ子の方から私に声をかけた。

「今日は本当にお疲れさまでした。あの、尾上さん、また会社に電話してもいいですか?」

 私はその言葉に天にも向かって飛びあがりたくなるほどの高揚感に押し流されそうになったが、何とか踏みとどまり、こう答えた。

「えぇ、是非また一緒に行きましょう。僕らがあの岸政権が倒れるまで声をあげましょう!」

 私が彼女を出会った赤坂見附の駅まで送り、切符を駅員に切ってもらい、四谷線で池袋の自宅に帰る彼女が電車に乗るところまで一緒に歩いた。

「じゃあ、尾上さん、またよろしくお願いします」

「あぁ、またがんばろう。気を付けて!」

 全く、今思うと本当に何をがんばっていたのだろうと心底恥ずかしくなってしまう。

 さて、デェトなどというもので遊びに行くなどもっての他な時代だ。
 振り返れば、まさ子と国会に行くことそのものが、私たちの「デート」だったのだ。
 それから私たちは、何十回と、あの議事堂の前に立ち続け手を取り合うことになる。

 私は当時会社で電話番として電話を掛けやすかったまさ子にお願いし、ウィスキー工場からムサシ電機まで仕事の電話の振りをして何度もかけてきてもらった。

「尾上さーん、ウイスキー工場から電話ー!」

 いつものように、工場の稼働中に事務のおかみさんから呼び出しがかかる。

「はーい、いつも営業ばっかりしやがって飲めねえって言ってるのにしょうがねえな。はい、もしもし?」

「あ、尾上さんですか?沼です。お疲れ様です。次のデモは今度の日曜日ですが、えっと・・・どうしますか?」

「ああはい、もちろん行かせて頂きますです。日本政府は自分が止めないといけないと思っていますからですね、是非行かせて頂きますとも。えっと、あのぅ、沼さんはいかられますか?行くならどこで待ち合わせさせて頂きますですか?・・・」

 会社の電話のすぐ横ではおかみさんが聴き耳立てているので、言葉遣いも二人で話している時とは大違いで滅茶苦茶だ。

 本音をいうと、安保条約闘争はだんだん半分おまけみたいな感じになっていた。とにかくまさ子に会いたくて会いたくて仕方がなかったのである。でも、格好つけたいからか、工場でも

「今度の日曜日にも俺はデモに参加してくる。絶対に岸政権を倒して見せる!」

 と気張って見せていた。

 工場長は私を睨みつけたが、私は気にしなかった。
 抗議に行くことこそが、この時代の若手労働者が生き残る手段だったからだ。
 好きな女と手をつなぐなんてことは私はちっとも考えてな・・・いや、少し、、、いやそっちばっかり考えていたかも知れない。今思えばね、ね。

「尾上、気持ちはわかるけどほどほどにな(ニヤニヤ)」

と、よく工場長から嫌味を言われたものである。
 後から当時の同僚に、

「しょっちゅうかわいい女の子の声で電話がかかってくるって、いつもおかみさんがボヤいてたんだから全然隠せてなかったぞ、お前」

 と大笑いされたのはしばらく先のことであった。

 何回目かの抗議のデモの日だった。

 その日もいつもの抗議の日のように、政府を倒せと声を張り上げ、声が枯れるまで抗議のコールをあげていた。

 ……と、声を出さないと埋もれてしまうほどの怒号とシュプレヒコールが飛び交う中だったが、私の耳にはそれがすべて遠くで鳴っているように感じた。まさ子の手の温もりが、すべての音を消していた。

 警官隊の影が動いた。私たちの前方に立ちふさがり、じわじわと群衆を押し戻しにかかっている。

「さがれ!危険だ!」

 誰かが叫んだ。だが誰も引かなかった。押し返すように声が高まり、広場全体が一つの大きなうねりになっていく。

 まさ子の手が、ぐっと強くなった。

「尾上さん、怖いですけど、私……がんばります」

 その時、私はやっと理解した。自分が彼女の手を引いて守ってやっているつもりで、実は逆だったのだ。彼女は一人で家族を支え、働き、そして声を上げる勇気を持っていた。私の方こそが、その強さに惹かれていたのだ。

 警官隊がついに突進してきた。

 私はまさ子の手を絶対に離すまいと、ぎゅっと握った。おそらく彼女も同じ気持ちだったに違いない。

 私たちは混乱の中で何度も押され、何度も叫び、それでも最後まで手を離さなかった。

 ──この日のまさ子の手の感触は、今も忘れない。

 この女を守らなければ。
 初めて、真剣に誰かを守りたいと思った瞬間だった。
 それは、ひとりの女に惚れて、真剣にその女を守りたいと思った、自分の人生の転機だった。

 周囲は騒然としていて、大きな声を出さないと会話もできないような環境ではあったが、やがて密集が解かれると、私たちは無言で中心からやや離れて一息つけるところまで逃げ出してきた。私たちはその間は何も話さなかったが、目と目で会話ができるとはまさにこのことだ。
 まさ子も同じ気持ちになってくれていたと思う。ただ、自分の目は非常に細いので、私の瞳が彼女に見えていたかはよくわからない。

 私は人知れず、好きな相手の手を握り続けていた。これが私にとっての青春だった。

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