第八話 喫茶店と一人旅
私は、戦後間もないころから、三軒茶屋のはずれ――野沢の一角にある家に、家族とともに暮らしていた。
木造二階建てで、冬には隙間風がすっと抜ける古びた家だった。
親も兄弟もいて、誰かの気配がいつもそこにあった。
ふとんに入って目を閉じるまで、話し声や足音が聞こえてくるような毎日だった。
結核療養からやっと復帰した昭和二十九年頃からだろう。少しずつ大人になりかけていた私は、そんなにぎやかさを、少しだけうるさく感じるようになっていた。
誰かとぶつかるわけでもない。大きな不満があるわけでもない。
それでも、ほんのひとときだけでも、ひとりになれる場所がほしい。
そんな気持ちが、心の中で静かに広がっていた。
ムサシ電機の工場は、東横線の祐天寺駅と学芸大学駅のちょうどあいだあたり、静かな住宅街のなかにあった。
野沢の実家からなら、歩いて通える距離だった。
朝になると家を出て、同じ道をてくてくと歩いて工場へ向かう。
そして一日、黙々と決まった作業をくり返す。まるで自分が機械の部品にでもなったような気分だった。
夕方になれば、また同じ道をてくてくと歩いて帰る。家に戻れば、いつもの騒がしさが待っていた。
そんな日々が、ただ流れていっていた。何も変わらず、何も起こらず、ただ時間だけが過ぎていくようなそんな錯覚の中にいた。

そんな、ある日の昼休み。いつものように近所のお店でコッペパンを2つ買って工場の片隅で頬張っているとき、先輩たちが話していた会話がふと耳に残った。
──「新宿に、うまいコーヒーを出す喫茶店があるらしい。あれを飲んだら、ほかのコーヒーは泥水に思えるってさ」
ちょっとした雑談にすぎなかったのかもしれない。
でも、その言葉が、妙に心に引っかかった。
コーヒー――。
結核で療養していたころ、看護婦にすすめられて口にしたあの香りが、記憶の底から立ちのぼってきた。
暇を持て余していたあの結核入院の日々、私を癒しとなってくれたのはそんな香りだったのである。
それ以来、あのひと口の苦味が、ずっと忘れられずにいた。
その夜、給料袋をポケットにねじ込み、なんとなく山手線に乗ってみた。
目的地がどこなのか、自分でもよくわからないまま。
ただ、誰にも話さず、ちょっとだけ遠回りのささやかな旅がしたくなっただけだったのかも知れない。
新宿の街は、当時からすでににぎやかだった。
ネオンが夜空をせわしなく彩り、屋台から立ちのぼる油の匂いが、冬の空気をじんわりと温めていた。
歩道のざわめき、車のクラクション、絶え間なくやってくるひと、ひと、ひと・・・
そのすべてが、どこか浮ついて見えた。
けれど、一本裏の道に入ると、空気がすっと変わる。
通り過ぎる人の足音もまばらで、小さな喫茶店の灯りがぽつんとこぼれている。
その夜、私はそんな一軒に、吸い寄せられるように入っていった。
カランコロン
ドアは重厚でどっしりしていた。この日は初めてひとりで知らない店に入ったのだ。勝手もわからない。値段ももしかしたらもの凄い高いかも知れない。
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」
店内には席は20席以上はあったであろうか。かなり大きな類の店だった。
ウエイトレスにそう案内され、私は比較的入口近くの窓の外が見える壁際の側の席に座った。
コロンとした氷が入った水とおしぼりが運ばれてきた。私はドキドキしながらメニュー表に手を伸ばす。
ブレンド 三十圓
と、書かれていた。私はその頃月給で一万円程度だったし、昼飯は十円程度で済ましていたので、その昼飯を三回は食べられる金額だった。
しかし、私は迷わず
「すいません、ブレンドを下さい」
と頼んだ。
しばらく待つと、ドリップでゆっくりと淹れられたコーヒーが、ウエイトレスがそっともってきた。
湯気が立ちのぼるカップを手に取り、ひと口、口に含んでみる。
すると、苦みと甘みが、静かに、でも確かに、舌の上でほどけていった。
砂糖を小さじ二杯ほど入れてまたすする。
──こんな味が、世の中にはあるんだな。
鼻を抜ける芳醇な香りと、舌にずっしりと感じる濃厚な味わい。黒角砂糖がとてもあって、脳を貫くほど味わい豊かな風味が全身を貫いた。
しばし、そのコーヒーを味わい。煙草を一本吸った後、私はその店をあとにした。そしてその帰り道、街の景色が少し違って見えた。
ただの寄り道が、思いがけず、心をほどいてくれることもあるのだと知った。
しばらくして、私は渋谷の街を歩いていた。
今度は誰に聞いたまでもない。きっと渋谷のような大きな街なら必ずうまいコーヒーを出す店があるだろう。
私にとって渋谷は新宿よりも見知った街だ。でも今日は出来るだけ行ったことのない路地に入ってみよう。
駅から十分以上は歩いただろうか、車も入れないような裏路地で、やはりふと目に留まるコーヒーを出す喫茶店の看板。
迷わず入ってみると、そこでもまた、香り高い一杯が迎えてくれた。
こ、これは──もしかしたら、まだ知らないうまいコーヒーが、この街には無数にあるのかもしれない。
そう思った私は、その日のうちに合計で五軒の喫茶店を飲み歩いていた。さすがに最後の五軒目ともなると、おなかはちゃぷちゃぷとなってしまっていて、
「こいつはいけねえや。もう味が分かんねーや」
と、自分なりに反省し、その日を境に一日にハシゴをするのは一日に三軒までと決めて、飲み歩くルールを決めたのであった。
コーヒー巡り三軒までの茶屋巡り。
これぞまさに、私が『三軒茶屋の男』だと感じる瞬間。
生まれも育ちも三軒茶屋、コーヒー飲むなら三軒の茶屋まで。うーん、マイルド。まさに、うーん、マンダム… ってなもんか。
私は、どこか運命的なものを感じながら、時間のある時を見つけては次の一杯を求めて足を踏み入れるのであった。
舗道に乾いた足音を響かせながら、時折立ち止まる。
屋台のにおいやタバコの煙、湿ったコンクリートの匂いに混じる街の気配を感じる。
その向こうに、まだ見ぬ喫茶店の看板が、そっと灯っている気がしてならなかった。
こんな頃だったか、私は忘れられない店を見つけたのだった。
その日も、歯車になって働いた私は、実家のある野沢に帰るみちすがら、職場のあった目黒からもほど近い、学芸大学前駅の裏通りで、ひとつの喫茶店を見つけた。
はて、こんなところにも喫茶店があったっけかな。
喫茶店など今まではほとんど興味がなかったので気にもしていなかった店が突然湧いて出たかのように錯覚に陥った。
まるで、魔法の杖で開かれたのように、昨日までは何もなかった場所に突如として店ができたような不思議な感覚だった。
もちろん、この店は私がムサシ電機に通う前からここにあったはずだ。
ドアを押す。
――カランコロン
うまいコーヒーを出す店というのは、必ずこの音が付き物だ。――うまいコーヒーのある場所だけが奏でる、小さな鐘の音。
そんなくぐもった鈴の音を鳴らせると、ツイと甘く焦げた煙草の匂いが私を出迎えてくれた。
そしてコーヒー豆を煎る匂いが、ねっとりと鼻腔をくすぐる。
間違いない。この店はうまい。新宿と渋谷でいい店の条件を体感で感じるようになった私は直感した。
カウンターに腰を下ろし、まず煙草に火をつける。 『昭和の男』である私には煙草が手放せない。
ひとくち、深く吸い込む。
カウンターの奥には、やや痩せた年配のマスターがいた。
私は黒板メニューのいちばん上を指差して言った。
「ブレンドください」
これは、どの店でもそうしている。最初の一杯は、黒板のいちばん上に任せるのが自分の流儀だった。
それは、その店の顔を見るような気持ちであり、自分の運を試すような儀式であり、灰皿に細く立つ煙を見つめながら、静かにコーヒーを待つ。
これが私にとって欠かせない時間であった。
マスターは無言でうなずき、ネルドリップでコーヒーを淹れ始めた。
その手さばきは、丁寧で、迷いがなかった。
届いたカップを啜った瞬間、胸の奥にじんわりと熱が染みてきた。
うまい。
まさかこんな近所。それも毎日通る道沿いにこんなうまいコーヒーを出す店があったなんて。
出会いというのは、案外こんなふうに、気づかぬうちに目の前に転がっているのかもしれない。
それからというもの、私はこの店を大層気に入り、時を置いては頻繁に通うことになる。その時間は私にとって一人になれる貴重な時間であり、マスターは決してその時間を邪魔しようとはしなかった。
カウンターに腰を下ろし、煙草に火をつける。マスターは多くを語らなかったが、しかし、ある日ぽつりと口を開いた。
「少年は大学生かい?」
「いえ、町工場の作業員です」
「そいつは良かった。私はね。同じような年のころは中国の内陸にいたんですよ、軍隊の二等兵としてね」
「ある村が、ロシアに包囲されているからって隊長に言われて、攻撃したんだけどね。村には村人しかいなくてね。私が敵だと思って銃弾を撃ち込んでいたのは何の罪もない中国人だったのだよ。──戦争ってのは一体何だったんだろうね」
重たい声ではなかった。ただ、遠い記憶をそっと取り出すように、静かに語った。
私にとっては戦争は祭りと実家が焼け落ちただけの悲劇だった。だが、周りの人間は全て同じだったので、我が家だけが特別だったわけでもない。
くわえて、家族にも被害にあったものはいない。
マスターの左脚は、戦争で負った古傷があり、今でもびっこをひかないと歩けないと語った。冬になると、疼くとも言っていた。
「ふっ、戦争の古傷なんて恰好つけて言っているけどね、これは敵もいない真冬の行軍の時に仲間が間違って撃った弾が打ち抜いた傷でね。恥ずかしいからこんなことあまり人には言ってないよ。」
「でも、結果的にこの傷で前線を外れた私は行軍せずにすみ、こうして生き残ったのだから撃った仲間に感謝しなくてはね」
「私が所属していた部隊は結局、玉砕命令が出てね。生き残ったのは私のような負傷兵だけだったのだからね。運命というのはわからんよ」
ある年の冬のことである。いつものようにその店を訪ねると、シャッターが下りていた。
貼り紙には「体調不良のため、しばらく休業いたします」とだけ。
しかし、それきり、店が開くことはなかった。
後から聞いた話では、あの古傷が冬の寒さにまた疼いて、体を崩したらしい。
その後、指先の感覚が戻らず、もうコーヒーを淹れることができなくなったという。
──もう二度と、あの味には会えない。
この時から私は、暇な時間を見つけては、電車に乗りマスターのコーヒーを淹れてくれる喫茶店を探す旅に出るのである。
降り立つ駅はいつも違う。けれど、足が向かうのは決まって路地の奥。
「あの味」を思い出すために──いや、思い出せなくてもいい。ただ、あの静けさを、少しでも味わいたい。
その先に、あのマスターがいる気がしていた。
どこかに、まだあの味が、あの静けさが、残っているような気がしていた。
コーヒーの湯気の向こうに、あの時間が、あの感情が、まだ確かに残っている。
街の匂いに溶け込み、煙草をくゆらせながらコーヒーを啜ると、心が少しだけ解きほぐれる。
煙草とコーヒーの香りに包まれ、知らない街の空気を吸い込みながら、私はひとり街を歩いた。
毎回、異なる喫茶店を見つけては、ドアを開けるたびに、どんな店主が待っているのか、どんな味のコーヒーが出てくるのか、わくわくしながらも心を落ち着けられる場所を追い求める。
――カランコロン
そして今も、マスターの面影を追い、今日もまた、あの味に近づきたくて──コーヒーを一杯また一杯、啜っている。

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