第五話 川柳と結核療養
昭和二十七年──工場で修行を始めて四年目、十八歳のことだ。
ようやく一人前の職人としての手応えを感じはじめ、毎日が充実してきた。まさにそんな矢先のある日のことだった。
その朝、体がだるく、どこか熱っぽかった。
「ちきしょう、今日は熱っぽいなあ。明日までの納期の仕事があるってのに」
ここのところ仕事が立て込んでいて忙しかったうえ、一か月ほど前から続いていた咳も、次第にひどくなっていた。
「ごほっ!ごほっ!」
私の咳を聞いたおかみさんが心配そうに声をかけてくれた。
「尾上君、その咳はちょっと気になるわね。今日はもう仕事はいいから、東京第二病院で精密検査を受けてきて」
「でも、明日までの仕事が残ってて……ごほっ!ごほっ!」
私が躊躇していると、工場長の菊池さんが割って入った。
「そんなもん、俺が何とかしとくよ。いつまでも調子悪そうなままでやられたら、不良品を出しちまうだろ」
「大丈夫ですって、午前の分だけでも仕上げちゃいま……」
言い終える前に、視界がぐらりと揺れた。地面が、自分に向かってせり上がってきて、そのまま私は、地面と衝突した。そう、私は受け身も取れず、前のめりに倒れ込んだのだ。
「尾上ー!」
「尾上君だいじょぶ?」
叫ぶ声と、誰かが私の身体を支えようとする手の感触が遠くに感じられた。額からは汗が噴き出し、胸は焼けるように熱い。息を吸うたびに肺の奥が裂けそうに痛む。
――そのまま、意識が途切れた。

気がつくと、会社のトラックの荷台に横たえられていた。振動が腹に響く。顔のそばには油染みのついた工場の毛布がかけられている。
「急いでくれ! 息が荒いんだ!」
運転席から工場長の怒鳴り声が聞こえた。誰かが助手席から窓を叩いて道を空けようとしている。車はクラクションを鳴らしながら、ただ必死に病院を目指して走っていた。
昭和三十年代、救急車を呼ぶという習慣もまだ薄く、病人はこうして“自前の車”で運ぶしかなかったのだ。
私はうっすらと目を開けた。灰色の空が揺れている。
息をするだけで痛い。それでもまだ、咳が止まらなかった。
「風邪だろ。熱止めでも出してもらえば、すぐによくなるさ、でも今は療養が先だな」
おやじさんは励ますように私にこう言ってくれた。
「ぜ、全然大丈夫っすよ。明日には戻りますから、おやじさんは仕事に戻ってください、ごほっ、ごほっ」
「無理すんじゃねえ。先生のいいつけをよく守るんだぞ」
「ごほっ、医者の世話になんてならなくたって、大丈夫ですって」
私はそう高をくくっていた。

しかし、突きつけられたのは、非情な診断だった。
「結核ですね。排菌していますので、今すぐ入院してください。君、隔離病棟のベッドの確保を頼む」
医者は慣れた感じで看護婦にそう指示をすると、その日のうちに着の身着のまま私は隔離病棟に収容された。
どこに運ばれたのかもさっぱり覚えていない。ただ全身を防護服に包んだ医師や看護婦が、慌ただしく動き回っていた光景だけが記憶に残っている。
この日突然、私の人生は「生きるか死ぬか」の過酷な日々へと急転直下したのである。

現在では治る病として扱われる結核であるが、当時は「不治の病」の筆頭とされて、多くの日本人の命を奪っていた。その死亡者数は太平洋戦争の犠牲者を上回るというのだから、如何に恐ろしい病気だったかが理解しても頂けるだろう。
そして、当時はいったん発症し、入院するということは、もはや普通の生活には戻れない──つまり、社会からの離脱を意味していたのだ。
そして、その多くは社会に復帰することなくこの世を去っていた。
ようやく将来の光が見えはじめた矢先、突然、私の世界は病室の一角だけに閉ざされてしまった。
茫然と窓の外を見上げた私の目に映った空は、さっきまで快晴だったはずなのに、どこまでも重苦しい鉛色に沈んでいた。
「ご存じのとおり、結核は栄養をしっかりとり、安静にしていれば急激に悪化することはありません。ただし、現在“特効薬”と呼べるものはまだ確立されておらず、いくつかある薬も効果が不確かで、しかも非常に高額です」
医師は私と母にそう説明したが、
「……いつ頃、退院できますか」
という母の問いには、一瞬黙り込んだのち、絞り出すようにこう言った。
「……本人の体力次第です。結核菌が出なくなれば退院の許可は出せますが、こればかりは“運”もあるでしょう。まずは静かに療養して、これ以上悪化させないように節制してください」
こうして、私の長く苦しい療養生活が始まったのである。
──不治の病の“結核療養”とはいうものの、実は名ばかりで、実際にはただ、ひたすら時間との戦いだった。
気胸(肺に空気を入れ病巣を抑える)治療以外は、ただただ安静に過ごす日々。体を動かせず、ひたすら暇を持て余すのである。
同室の患者は今では考えられないが、同年代の若い男が多く、私は患者たちと日々笑いながら過ごしていたのである。
いや、逆に馬鹿話をして笑ってでもいなければ、現実の厳しさに精神の方がおかしくなってしまっていたに違いない。
そんなある日のことだった。
院内で配られる小さな新聞に、「川柳募集」の記事が載っていた。
最初は笑ってしまった。そんなもの書くなんて、馬鹿げている。川柳なんて、年寄りか、学のある人間のやることだろうと。
けれど、あまりに暇だった。試しに鉛筆を取ってみると、指が思いのほかこわばった。
五・七・五。たったそれだけなのに、言葉が出てこない。
何枚も紙をぐしゃぐしゃにしては捨てた。それでも、なぜか諦められれず、また書いて、また捨てて、ふと気がつくと、ずっと机に向かっていた。
まるで、使ったことのない筋肉をいきなり動かしたような、疲れと不安が胸に残った。

(……もし、誰かに笑われたら)
投函箱の前で足が止まった。でも「どうせ誰とも顔を合わせるわけじゃない」と思い直し、思いきって紙切れをポンと投げ入れた。
数日後──
病棟の掲示板に、自分の名前があった。
──川柳大会 優秀賞──
『病院で 覚えた手品 母にみせ』 ──芳明
心臓が、大きく一つ、脈を打った。
学のない、十代の若造が、たった五・七・五の言葉だけで、誰かに届き、認められたこと。たとえこの病院という狭い世界だけでも。たとえ、それが一時の慰めにすぎないとしても。
(俺にも、できるんだ。)
静かな喜びとともに、胸の奥に、確かなものが湧き上がった。
──もっと、日本語を学びたい。もっと、心に届く言葉を紡ぎたい。
中学しか出ていない自分が、本に手を伸ばし、学問に向かい、漢字を覚え、文法にも親しみ、やがて詩を書き、短歌や川柳、そして俳句に手を出すようになっていくとは運命にもてあそばれたとも言えよう。
それまでの私の言葉は、工場で捨てられる端材のように、意味を持たず消えていくばかりだった。
けれど、三行に並べただけで言葉は誰か遠くの人にも届き、そして残る。
それは、端材ではなく、きちんと形を与えられ、プレス機で抜かれる美しい製品そのものに変わるのだ。
しかし、運命は私を容赦なく絶望に追いやるのであった。隔離されてから半年ほど経った頃、私の病状は急激に悪化し、ベッドに横たわる時間が多くなるようになってしまった。
熱にうなされながら、喉や関節の痛みに耐え、天井の染みをぼんやり眺める時間が増えていった。
病棟は静まり返り、かすかに聞こえるのは誰かの浅い咳だけ。
鼻をつくのは消毒液の匂いだけだ。
外の世界とは完全に隔絶された結核隔離病棟。今のようにテレビも携帯電話もなく、家族の面会もほとんど許されない。窓の外の世界で何が起きているのかをも知る術もない。
ただ、病室のカレンダーと誰かが持ち込んだ古い新聞の日付欄だけが、かろうじて時間の流れを教えてくれる。
次第に自分がどこにいて、今がいつなのかも分からなくなる。生きて外に出られるのか、一年後なのか、十年後なのか、それともここで一生を過ごすのか。
まるで見当もつかない。
そう、ここは「死を待つ場所」なのだ。
隣のベッドにいたのは、まだ三十前後と思われる男だった。
つい数日前まで、私と同じように本を読み、談笑し、ただ時間を持て余しているだけに見えた。
けれど、ある日を境に、彼の顔つきが変わった。痩せこけ、咳のたびに苦しげに身をよじるようになった。
聞けば、小さな子どもと妻を残して、この療養所に送られてきたという。
夜中、何度も彼のうわ言が私の眠りを裂いた。
「……ごめんな……帰りたい……」
その声は、時にすすり泣きに変わり、時に、誰かに許しを乞うようにかすれていった。
ある朝、熱を測りに来た看護婦がぴたりと足を止め、そして何かを察したように、表情を消して医師を呼びに走った。
静かに──しかし慌ただしく──彼は担架に乗せられ、別室へと運ばれていった。
それきり、彼の名は誰の口からも語られることはなかった。
ただ、ぽっかりと空いたベッドと、そこに残された湿った咳の記憶だけが、私の心に居座っていた。
「俺も、もうだめか……」
心の中でつぶやいた途端、胸の奥で、何かが張り裂けるような痛みが走った。
思い出したのは、戦後の焼け野原を駆け回った日々だった。
裸足で瓦礫を踏み、乾いた風に吹かれながら、的屋や賭場の手伝いをして、小銭を握りしめて走り回ったこと。
悪友とつるみ、喧嘩をし、笑い転げたあの、埃っぽい町並み。
すべてが、もう遠い昔の幻のようだった。
どこかで、小さく――カタン、と水差しを置く音がした。
その微かな音で目を覚ました私は、まだ、かろうじて生きていることを実感する。
ある晩、看護婦が無言で枕元に紙と封筒を置いていった。
「……遺書を書いておきなさい」そう言われたわけではない。けれど、そういうことなのだろうとすぐにわかった。
手が震えて鉛筆が持てず、名前しか書けなかった。涙でにじんだその字だけが、なぜかくっきりと紙に残っていた。
家族の顔を思い出そうとしたが、思い出せないことに衝撃を受け恐怖で寝付けなくなった。
そんな絶望にうちひがれていたときだった。予期しない幸運が私に突然やってきた。
医師が私のいる病室に入ってくるなりこう言った。
「この中に、保険適用された新薬の治験者になる覚悟のある人はいますか?」
当時、認可されたばかりの新薬『ストレプトマイシン』の保険適応が始まり、まだその効果もはっきりしないまま医師は私たち患者にその覚悟を聞いて回っていたのだ。
「この薬は──あなた方にとって、唯一残された可能性です。ただし、副作用については、まだ分かっていないことも多い。場合によっては、その副作用によって症状が加速度的に悪化する可能性もあります。しかし、結核はすでに、あなた方の体を蝕み、確実に支配し始めている。これは“希望”などではありません。私は、あなた方の“覚悟”を問うているのです」
私は、いの一番に手をあげて医師にこう答えた。
「今のままでは、ただ死を待つだけですよ、先生。どうせ死ぬなら薬の副作用がどうなのか俺の身体で試してください」
「いいんですか?薬と相性が悪ければ最悪…ということさえありますよ」
「ええ、構いません。とっとと俺に投与してください」
こうして、私は最初の治験者として新薬の投与を迷わず決断したのだ。

医師は『もし投与に効果がなく死亡しても病院側には責任はありません』とか、『死亡した場合は司法解剖されることに同意します』などと、十代の若者だった私には何のことだがよくわからない書類を持ってきて記名することを迫った。
「これにサインをいただければ、すぐに薬を用意できます。死亡時の処理についても一任していただきます」
「わかりました。ペンをください」
私は、今のこの環境が良くなる希望が少しでもあるのならどうにでもなれ、とばかり、医師の話などろくに聞かず、書類も内容をよく読まずに名前を書き込んだ。
「芳明、もうちょっとちゃんと文章を読んでから…」
私は未成年だったため、同じく記名することを医師から言われていた母が泣きながら私にそう訴えたが私はあえて強めにいった。
「母さんさ、どうせ死ぬってことなんだから、お国のためにこの体をつかってもらって何が悪いのさ。俺に運があればきっとよくなるさ」
強がってはいたが、内心『死』というものがどういうものだか理解しようとはしておらず、母の涙でぐしゃぐしゃになった書類に名前を書いたはいいが、右手で持ったペンはカタカタと震えていた。
──そして、その震えが止まる間もなく、投与はすぐに始まった。
『ストレプトマイシン』は非常に強い抗生物質だ。経口摂取では効果が出ないため、静脈注射で投与されたが、私の身体はすぐに反応した。
熱はあがり、吐き気と耳鳴りが容赦なく私を襲った。頭は割れるように痛み、皮膚はひび割れた。
「これで効果があるのか……?俺は生き延びられるのか……?」
そんな疑いが頭をかすめたそのとき、ふと三軒茶屋で笑っていた悪友たちの顔が浮かんだ。
「生きて、もう一度、あの街で――」
それだけを支えに、私は唇を噛みしめて、薬の苦しみに耐えた。
吐き気。めまい。全身を駆け巡る熱と悪寒。
目を閉じれば、骨の髄にまで染み込んだような痛みが、夢の中まで追いかけてきた。
食事は喉を通らず、水さえも胃が拒絶する。食べたものはほとんどが水便となって流れ出た。
夜には胸の奥が焼けるように苦しくなり、何度も目を覚ました。
私は思った。
──このまま死ぬのだろうか。
だが、もう引き返すことはできない。
熱で眠れない夜を何日が過ぎたであろう。
それでも、ある朝のことだ、微かな変化が訪れた。呼吸が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
それは錯覚かと思ったが、次の日には熱もわずかに下がっていた。
医師は驚き、そして微笑んだ。
「君は正直、もって一年だと思っていた。実に運が強い」
こうして私は、一年に及ぶ結核との闘いを生き延びたのだった。
それからと言うもの、私はこの新薬『ストレプトマイシン』の注射を続け、数週間が経った頃、医師から退院の許可が出たのであった。
私が元気そうな姿で外着に袖を通していると、退院の付き添いにきた母は涙を浮かべ、
「よかった。本当によかった。」
と、繰り返した。
退院して隔離病棟から出て、久しぶりに外の空気を吸ったその瞬間のことを私は今後も忘れることができないだろう。
空気がおいしい、という言葉をよく耳にするが、その意味がこれほどまでに深く感じられるとは思わなかった。
息を胸いっぱいに吸い込めることが、こんなにも尊く感じられるとは、健康な人にはきっとわからないだろう。
──私は生きている。

久しぶりに戻った家の棚に、私は処方されたばかりの副作用を抑える薬の瓶を並べた。しばらくはこれらの薬を飲み続けなければならない。その小さな瓶は、私にとって『生きる希望』そのものになった。
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