第一話 祭りと戦争
私がこの世に生を受けたのは、昭和一桁──昭和九年のことだ。
父・昇(のぼる)は、世田谷の三軒茶屋界隈で縄張りを持つ的屋だった。私は、昇と母・よしとの間に生まれた九番目の子どもであった。
父は私に「芳明(よしあき)」と名づけた。
芳(かんば)しい香りを放ち、明るく、正しく生きてほしい──そんな願いが込められていたのだろう。
だが、人生とは得てして、親の願いどおりに進むものではない。その名に託された平穏な祈りとは裏腹に、私の物心は「戦争」という激震によって刻み付けられていく。
戦争が始まった昭和十六年は私はまだ七歳だった。しかし当時七歳の私が「戦争」というものがどういうものかなど、理解できていなかっただろう。
そんな幼い記憶の中、今もなお鮮やかに残っているのは──父の舎弟たちが営む屋台の縁日を、とにかく楽しみにしていたということだ。
時は太平洋戦争の真っ只中、昭和十八年の夏の盛りだった。
「お、よし坊とまぁ坊じゃねえか。これ持っていきな」
威勢の良い声がお祭りでにぎわう境内に響き渡った。
私は年子の弟・正幸と自宅近くのお宮さんの縁日を歩いていた。正幸はたったいまタダでもらったハッカパイプを口にくわえ、スースーと嬉しそうに吸い始めていた。
お宮さんとは、当時住んでいた家の近くにある龍雲寺のことで、お祭りは年に一度の楽しみであった。
「おっちゃん、えいちゃん見なかったかい?」
「よし坊のお兄ちゃんかい?見てねえなぁ」
祭囃子が境内に響き渡り、夜空にはまんまるの月が浮かんでいた。
「わかった、焼きそば屋さんに聞いてみるよ」

ちなみに兄を探しているのは単なる言い訳だ。兄がいなくても困りはしないし、寂しくもなかった。ただで焼きそばを食べたかっただめに吐いた言い訳だ。
何しろ、ここに店を出している的屋の店主は全員が顔なじみなのだから。
私は東京は世田谷区の三軒茶屋という町で生まれ育った。
墨田区や江東区など、いわゆる「下町」と呼ばれる地域とは少し雰囲気が異なり、江戸っ子らしさはあまり感じられない。
しかし、ここにも人々の暮らしがあり、毎日飯を食べ、子供を産み育てていた。日々の仕事をこなしながら、息抜きのために祭りや縁日を心待ちにする、そんな普通の町だった。
そんな日常に応えるように、父をはじめとする的屋たちは祭りの準備に励んでいた。
父・昇は、地域の的屋組織『松原組』で『実子(じっし)』という役職を務めていた。
これは、親分に次ぐ立場で、祭りの屋台の場所決めや場所代の徴収などを担当する重要な役割だった。
現代で言えば「露天商のリーダー」といえば通りがよいだろう。
父は的屋仲間から親しみを込めて「あにさん」と呼ばれ、祭りの前には良い場所を求めて多くの店主たちが我が家を訪れていた。
「あにさん、次くらいは入口すぐ横の場所に置かせてくださいよ」
「あにさん、この間はありがとうございました。また今度もよろしくお願いします。これは売れ残ったもので・・・」
「あにさん、鳥居の裏はさっぱりでしたよ。今度こそいい場所を是非お願いします」
とまあ、こんな会話が私たち子供のいる部屋まで聞こえてきたものである。
的屋の商売はその日暮らしだ。
年に数回の祭りでどれだけ稼げるかが家計を左右する。祭りのない日々には、天秤棒を担いで魚や金魚、風鈴、風車など、売れるものは何でも売り歩いて日銭を稼ぐしかない。
だからこそ、祭りの日にもなると、息抜きに遊びにやってくる祭客とは祭りに賭ける意気込みが違うのである。
「なんか、今日も兵隊様が大活躍したってなあ。大したもんだ」
「昨日も南の海で敵をぎゃふんと言わせたらしいよ。やっぱり日本は無敵だねえ!」
「こりゃあ年内に終戦ですな!いや、年内どころか、秋祭りの頃かもな!」
戦争も始まってだいぶ時間が過ぎていた頃ではあったが、日常ではお祭りも普通に行われていた。
遠い国の話ではあったものの、すでに戦争に突入したことは大人も含め誰もが理解していた。しかし、あっという間に日本が勝利し、素晴らしい黄金の未来が来ると、この時はまだ誰もが信じて疑っていなかった。
勘違いされそうなので先に補足しておくと、昭和生まれの世代は太平洋戦争には直接関わっていない。
戦争は明治・大正に生まれた大人たちが引き起こした、昭和生まれの世代を巻き込んだ悲劇だったのである。
さて、私と弟の正幸は当然のようにただで焼きそばにありつこうと、祭りの中、探してもいない兄のことを焼きそば屋さんに聞きに行った。
「おっちゃん、えいちゃん見なかったかい?」
「お、よし坊、まぁ坊じゃねえか、えいちゃんか、見てねえなあ。そら、この焼きそば持っていきな。あにさんによろしくな」
「よし兄ちゃん、ぼく綿あめが食べたいよ」
「しっ!マー坊、今ハッカ飴貰ったばっかりじゃないか。がまんがまん」
「うぅ・・・まあ焼きそばでもいっか」
焼きそば屋でも父の息子というだけで、この調子である。みな父に媚びを売りたくてしょうがないのである。子供心での父はすごい人なんだなあと自慢したい気持ちでいっぱいだった。
私は父と母の九番目の子供である。今では考えられないが、子供が十人以上いるのが普通の時代だったのだ。
しかし、私はずっと上の兄姉のことをほとんど覚えていない。物覚えつく頃には皆それぞれの理由で死んでしまったからだ。
子供の頃はそんなもんだろうと思っていた。まだ昭和のこの時代、子供の命は大して価値のないものだったのだ。
母は全部で十二人の子供を産んだのだが、私が覚えてるのは兄は三人、弟が一人、そして妹が二人だ。
父は既に十二人の子供をもうけ、残された私たち大勢の家族を養っていたためか、当時まだ四十代前半だったにもかかわらず、徴兵を免れていた。
そんな事情もあってか、舎弟の的屋にはもちろん、母に対してもすぐに手を挙げて暴力にて黙らせるなどとても厳しい印象のある父だったが、私たち息子娘にとっては優しい父親だったように思う。
一方の母よしはとても強い女であったことをよく覚えている。
戦争の緊張感がまだ日常に浸透していない頃のことだろう。当時の三軒茶屋には、戦後には暗渠となった小川があちこちに流れていた。その川は子供たちにとって格好の遊び場で、兄の栄一と弟の正幸と一緒に、よくトンボを取りに行ったものだ。
「ねえ、えい兄ちゃん待ってよ~」
ある日、蝉の声が耳をつんざくほど響く、暑い夏の日だった。私は兄の後を追いかけ、川を飛び越えようとした。
「うわぁっ!」
私は足を滑らし、頭から川に転落してしまった。
冷たい水が体を包み、額から血が流れ出た。私は慌てて兄と弟に助けを求めた。
「うぐぐっ、た、助けて!えい兄ちゃん!まぁ坊! 」
「大丈夫か、よし坊!」
栄一が差し伸べた手を何とかつかみ、川から這い上がった。
「うわあ、ひどいな、額から血が出てるぞ。手で押さえておきな。母ちゃんに包帯巻いてもらおう」

私たちはトンボを諦めて、急いで家に戻ったが、母のよしは、まだ幼い妹を背中に背負いながら、台所でキセルを手にタバコをふかしていた。
「かあちゃん、よし坊が川を無理に飛び越えようとしたらすべっちゃって・・」
えい兄ちゃんが母に丁寧に説明をしてくれたおかげで、私は安心し、母が痛む額を優しく治療してくれるのを待った。
しかし、流れる血を見た母の表情は、一瞬にして強張った。そして、キセルの金属部分を私の額めがけて、思いきり振り下ろしたのだった。
「危ないことしてんじゃないよ!この大馬鹿者が!」
母の一撃に驚き、私は大泣きしてしまった。
「母ちゃん、ひどいよそりゃ、よし坊だって泣いちゃうよ」
栄一兄さんが必死に母を止めてくれたのがとにかくありがたかった。
その夜、私は額に包帯を巻かれ、布団に横たわった。兄の栄一と弟の正幸はそばで眠りについていたが、私は痛みでなかなか寝付けず、天井を見つめながら過ごした。川に落ちたときにできた傷よりも、キセルで叩かれた傷のほうが、ズキズキと痛んでいた。
今思えば、母はただ子供たちが無事でいることを願っていただけだったのだろう。しかし、血を流して帰ってきた実の息子に対し、キセルで殴り返すとは……。今思い返しても、母らしいというか、どうかしている。
そんな父と母に育てられ、小さな幸せに笑い合うような毎日を送っていた。しかし、戦争の魔の手は、そんな日常をやがて戦火によって引き裂いていく運命にあった。私の幼少期は、そんな時代の狭間で静かに、そして確かに過ぎていった。
さて、父の家業に話を戻したいと思う。
的屋家業には、地域の祭りの他に一大イベントがある。
『七五三』だ。
特にこの時代、子供の死亡率が非常に高かったため、成長を祝い、長寿と幸福を祈願することは、決して滞ることなく、戦時中であっても続いていた。そして、的屋にとっては、七五三にやってくる親たちは格好の『葱を背負った鴨』なのである。
「今年の野沢稲荷神社の千歳飴の販売担当は尾上でやらせて頂く」
七五三は、神社にとって重要な日であるのと同様に、千歳飴を売る屋台にとっても重要な日だ。父の縄張りでは通常、ひとつの神社にひとつの屋台しか置くことができない。縄張りは、三軒茶屋から桜新町の方まで広がっていたが、その中にある神社の数と的屋の数を比べると、神社の数の方が圧倒的に少なかった。そのため、的屋にとっては数年に一度権利が回ってくればいい、美味しい仕事だ。しかし、父は毎年この権利を必ず手に入れるという旨味を親分から頂いていた。
どんなに貧乏な親であっても、この日に着飾った子供から千歳飴をねだられたら、断れる者などいるはずもないだろう。
「おとうちゃん、これ買って」
「しょうがねえな、おい、千歳飴を五本ほどくれるかい?」
「このたびはおめでとうございます。五十銭です」

今から思えば、競争相手がいないのだから、値段は正直ぼったくりだっただろう。しかし、親にとっては一生に何度も買うものではないし、お祝い物を値切る者もいない。的屋にとっては、この日だけで数か月分の生活費を稼ぐ絶好の機会だったのだと思う。
私は千歳飴を売る父の姿をよく覚えている。そして、千歳飴の味は全く覚えていないが、七五三のあったその日は、母から豪勢な食事が振る舞われたこともよく覚えている。私の家にとっては、正月よりもおいしいごちそうを食べれる日になっていたのだ。
しかし、そんな世田谷の三軒茶屋地区にも、B-29は容赦なくやってきた。
昭和二十年五月も終わりに差し掛かった深夜のことであった。(記録によると五月二十五日)
この時、私はまだ十歳、小学校4年生だった。学校はほぼ機能しておらず、毎晩鳴り響く空襲警報で、ほとんど毎日が寝不足だった。
真冬の三月に東京は大きな空襲に襲われたが、当時世田谷はまだ農村地であり、さすがにここまでは爆弾も来ないだろうと安心しはじめていた矢先だった。
寝ていた私兄弟を父がたたき起こした。
「お前ら!早く起きて頭巾かぶって防空壕へ行け!」
いつもとは様子の違う父の差し迫った声に、私はびっくりして枕代わりにつかっていた防空頭巾をかぶると急いで下駄を履き、外に出た。
防空警報が鳴り響く中、空からは多くの火の粉の固まり──焼夷弾が落ちてきていた。
辺りは既に騒然としており、大人たちは水を入れられる道具を持って走り回っていた。
すでに自分たちが住んでいた長屋の一角は炎がもう取り返しがつかないほどに立ち上っており、私たちは呆然とした。
「よし兄ちゃん、家が燃えちゃうよ」
「大丈夫だ!俺の手を握ってろ!」
とてもじゃないが、こんな混乱の中、防空壕まで行ける気がしなかったので、私と弟の正幸は空から容赦なく降ってくる焼夷弾から逃れるため近くの畑にうずくまった。
当時小学校の高学年になっていた兄の栄一は大人たちとともに手押しポンプで燃えさかる家に必死に水をかけ続けていた。その姿が今でも脳裏に焼き付いている。
「よし兄ちゃん、うちにも火がついちゃったよ!」
弟の手前、泣き出すわけにはいかなかった。
「ああ、でも大人たちがなんとか消してくれるよ。心配するな」
だが、そんな努力も焼け石に水で、ささやかな幸せを噛みしめていた我が家は、あっけなく炎に包まれてしまった。
思い出が詰まった我が家が周りの家と共に炎にまかれていく様は酷く心に突き刺さる光景であった。
翌朝、畑の中で二人で抱き合って寝ていた私たちを見つけた父と母は、何も言わず、私たちの手を取って焼け残っていた隣人の家に身を寄せた。

しかし、B-29は翌日の夜もやってきて、わずかに焼け残った隣人の家屋も根こそぎ燃やし尽くしていった。
世田谷区立中里小学校の北側近くに住んでいた尾上家であったが、かろうじて建物の原型をとどめていたこの中里小学校もこの二日目の空襲によって、完全に燃え尽きてしまい、跡形もなくなってしまった。
父と母だけじゃない、ほとんど全員の三軒茶屋の住民は、家族である子供らを抱えたまま住む場所を完全に失ってしまったのであった。
──終戦直後、焼け野原となった三軒茶屋。
その我が家があった場所で、ありあわせの板で風よけを作り何とか生活を続けていたが、当時たまたま福島という母・よしの弟──つまり叔父が世田谷区野沢に家を見つけてくれたことで、家族全員がそちらに身を寄せることができた。
新しい場所は元の家から南東へ約五百メートルほど離れていたが、かつて葬儀屋の跡地だったためか、床下から骨壺が出てくるような妙な場所だった。
雨が降ると屋根から水が滴り、隙間風が吹き抜ける粗末な家だったが、それでも外で寝なくてよいという安心感。家族と共に布団で休めるという温もりがありがたかった戦後の尾上家であった。
それからしばらくして、父は何とか元の生活に戻ろうと的屋の舎弟たちを集めようとしたのだが、戦後の混乱の中で的屋の世界も変わり、やくざが暴力で仕切るようになっていた。
父はそんな惨状を目の当たりにし、
「おれは暴力団にだけはならない」
と家族に宣言し、ついに廃業を決断した。
的屋とやくざが同じだと見られることが多い現代であるが、戦争前までは的屋家業は本当に健全で、地域のお祭りを盛り上げるためになくてはならない存在だった。
そして、それを本業として真面目に、真摯に家族を養っていた人々がいたことを、ここで記しておきたいと思う。
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